自分のラボに侵入者を許したのは、彼女が初めてだった。
あのとき軍にハッキングの才能を見出され、僕は自分専用のラボまでもらって有頂天だった。
実際、ケロンのシステムは依然とは比べ物にならないほど衰えているように思えたし、自分のほうが上であるように確信していた。
なによりも自分の好きなことを一日中誰に咎められることなくしていられるのだ。
これ以上のことはなかった。
隊長であるはずのガルルはもとより、タルルやゾルルが何か言ってきても当然のように無視し続けてきた。コンピュータに向かっているときの方が楽しかった。
けれど、彼女が来て、僕の傲慢な思い込みは簡単に奪われてしまった。


「やっぱりここでしたね。トロロ新兵」


振り返る。ラボの扉を開け放った彼女は、あの日と同じように笑っていた。
僕のラボは何重にもロックがかけられ、暗証番号だって誰にも教えた記憶なんてないのに、彼女は突然その扉を開け放った。そのときのことはよく覚えている。僕は信じられないような顔でその扉が開くのを馬鹿みたいに呆けて見守っていた。まるで天照大神が、開くはずのない天岩戸をこじ開けられて呆気にとられるように、嘘だと信じたい一心でその事実を見ていた。自分以上の天才がいることなんて知りたくなかったし、理解したくなかったのだ。僕はそのとき扉を開けた人物が、間違いなくこれから僕の地位を脅かすであろうことを予想していた。
しかし、現れたのは看護兵。片手に看護バックを抱え、もう片方の手を腰にあてて、射るような視線で僕を見る女がただ一人立っているだけだった。


「…………ププッ。遅いお越しだネ」


あのとき看護兵だとは名乗り、そしておもむろに説教し始めた。日ごろの不摂生と、軍で決められた定期健診を一度も行ったことがなかったことを淡々と話されて、突然人の部屋に入ったことを僕は咎める隙も与えられずうろたえた。そしては大きなため息を一つ零したあと、まるで子どもを宥める母親のように「もう無断で部屋に入られたくなければ、やることをちゃんとしてください」と命令とも取れる約束をさせた。僕はあまりのことに憤慨していたのに、文句を言う前に「返事は?」と強く促されて頷いてしまったのだ。本当に、あのときはやられたと思う。


「ガルル小隊の皆さんは、一箇所に集まっていてくれませんからね。看護兵泣かせとはこのことですよ」
「知らないもんネ〜。僕らだって忙しいんだヨ」
「その忙しい方はまたお菓子ですか?まったく、あれほど栄養のバランスを考えてくださいと言っているのに」


ちらりと投げ出された視線のさきには大量のゴミが積み重なっている。しかしはそのことを大して叱らなかった。いつもならば、何を食べたか全部白状させたあと、カロリーやら成人病やらの脅しともとれる忠告をするはずなのに、今日はそれがなかった。


「まぁ、一応、任務お疲れ様でした。さっそくですが、健康診断をしますよ」
「…………」
「注射が苦手なのはわかってます。でも、一瞬ですから…………」


が救護バックをそのへんの机に置き、口をあける。僕は黙ってその動作を見ていた。ややあって、の手に注射器が握られる。


「…………ですから、大人しく…………トロロ新兵?聞いてますか?」
「…………」
「だんまりですか?いったい今度は何が…………」
の仕事は、それだけじゃ無いダロ?」


感情を込めずに言ったつもりだったが、存外上ずった声になってしまった。は僕の言葉に何度かまばたきをしたあと、首を傾げる。


「…………意味が、わかりませんが」
「ププッ!白を切りとおせると思わないでよネ。僕は、知りたいことは全部知ってるんだ」


本当だった。大抵のことならケロンの情報網を使って知ることが出来たし、そのケロンの内部情報だって本気を出せば手にすることが出来る。それこそ部署違いの看護兵の情報など容易く手にいれることが出来るのだ。があのケロロ小隊に入隊していた時期があったということも、今彼女がどんなことをやらされているのかも、何もかもが画面に映し出される薄っぺらな事実でしかない。
は、ふと表情をなくして、まわりを見渡した。


…………?」
「その棚」


びくり。突然言い当てられて、僕は自分でも笑ってしまうほど反応してしまった。は僕の反応を見て確信を得たようにすぐさま棚に近づいた。
なんの変哲も無い棚。お菓子を入れておくためだけにそこにあるような棚だ。はその棚を両脇に開け放った。止める間もなかった。の行動は一々すばやすぎてついていけない。それも以前の職場での名残だろうか。


「…………こんなところに隠してたんですね」
っ!」
「狭いところで、さぞ窮屈な思いをしたでしょう」


が、ゆっくりと棚の中に手を伸ばした。まるで壊れ物を扱うかのように、そっと触れて取り出されたものは小さな幼年体だった。緑の体を持つ子どもが、怯えるような目でを見ている。僕は自分の作戦の浅さを呪った。このあとどうなるかを予想してもう居たたまれなくなる。どうすればいいのかわからなかった。しかし全ての予想を裏切って、はその子どもを恭しく床に下ろしたあと、その視線の高さに合わせるようにしゃがみこんで笑った。


「はじめまして、ですね。Cケロロ隊長」


あまりにも朗らかな笑顔だった。それとも、戦場を駆けていた彼女は自分の感情を殺す術を身につけているのかもしれない。笑いかけられたCケロロは、予想もしていなかった彼女の行動に少々面食らっているようだった。
僕はCケロロにこれは遊びだと伝えていた。
かくれんぼだから見つからないようにと言えば、負けず嫌いの彼は素直に言うことを聞いて棚に納まってくれたというのに肝心の鬼がにっこり笑っているのだから拍子抜けしたのだろう。ぱちぱちと大きな瞳をまばたきする。


「アンタ誰でありますか?」
「これは失礼しました。看護兵といいます」


の声は、どこか弾んでさえいるようだった。そうだ。感情を殺せるはずが無い。の大切な人の、クローンとは言え同じ素材の人物を前にしてどうして無感動でいることが出来るだろう。安堵と共に、今度は違った疑問と不安が襲ってきた。
は笑っている。


「ゲロッ。かんごへい!我輩、注射はキライでありますー!」
「あらら。大丈夫ですよ。今日はしませんから」
「ほ、ほんとでありますか…………?」
「えぇ。でもトロロ新兵にはしないといけないので、少し待っていてくださいね」


まるで他の場所で起きていることのように、ボクはそれをぼうっと見ていた。次に気がついたときには間近にの顔があり、ボクは腕をとられている。彼女の左手に、光る先端が見えた。


「トロロ新兵」


が顔を近づけて、視線だけは腕と注射針に集中させながら囁いた。彼女の背中越しに、こちらを見ないように顔を背けているCケロロが見えた。


「話は聞いてますよ。随分、仲がよくなったって」
「…………それ、ガルルでショ」
「えぇ。…………わたしも、仲良くなりたいな」


肌を突き破り一瞬のうちに血を抜いて、芸術的な動作では仕事を終了する。ボクは感じられない腕の痛みなんかよりも、彼女が今言ったことに気をとられていた。
仲良くなりたい?それはどういう意味だろう。だって、そんなこと、許されるはずないじゃないか。


「たぶん…………」
「え?」
「たぶん、わたし達の考えていることは一緒ですよ」


小さな声だったのに、打ち抜かれた思いでボクはを見た。彼女は看護バックに注射器を戻すと、その口をきっちり閉める。けれど、ボクはそのときはっきりと見た。バックの中には注射器以外の、それこそ看護とは無縁のものが入り込んでいるのを。
あのとき、ガルル中尉が持っていたものをは忍ばせている。けれど、使う気はないのだ。彼女の考えを知ったボクは、嬉しいような泣きたいような気分になった。


「さぁ、わたしのお仕事も終わったことですし、新しい遊びでもしましょうか?」
「ゲロ!あそびでありますか?!やるやるやる〜!」


注射針から逃げるように身を引かせていたCケロロがぱっと顔を明るくさせた。実に子どもらしい切り替えの早さには苦笑して、ボクを見る。ボクはやっぱり笑っていいか、わからない。本心では望んでいたことだったのに、それでも躊躇ったのはがそうしなかったからだ。はボクの手と、Cケロロの手を両手で握った。


「鬼ごっこをしましょう。どこまで遠くに逃げられるかはわかりませんけど」
「鬼ごっこ?!やっふー!我輩、得意であります!」
「…………


無邪気にはしゃぐ子どもに顔を綻ばせて、はボクに視線を移した。くるくると回りだすCケロロから離した手をゆっくりと唇に近づけて、まるで静かにするようにとでも言うように人差し指を立てた。それから笑って、そっとボクにだけわかるように呟く。


「逃げちゃいましょう?あとのことは、あとから考えればいいんです」


囁かれた声音は恐ろしいほど優しかった。ボクはの看護バックの中身を思い出す。それから決心するように頷いた。今は、ただただ逃げたかった。





そこにある納得できない恐怖に、ボクたちはそれしか対抗する術を持たなかったのだ。




























(07.10.19)