ケロロの背中を見ると、とても果てしない気持ちにさせられる。
その背中は小さくて、きっととても柔らかいのだろう。触ったことがないからわからないが、きっとそうだと思う。つるんとしたおしりの表面や、弾力のありそうなもっちりとした見た目からもそうだと窺えた。
カップを持ち上げて、はそっと唇をつける。慎重な手つきだった。なにしろ手元ではなく彼を見ているのだから、それは慎重にもなるというものだ。


殿」


たぶん一メートルくらい離れていたケロロが、困ったようにを呼ぶ。けれど彼は振り返らない。
ここはケロロの自室で、今はわたし達だけしか居ない。数分前まで甲斐甲斐しくケロロの世話を焼いていたモアは彼のためにお茶とお菓子を用意しに行っったし、タママは彼女が消えると同時に自分のお菓子をお屋敷に置いてきたことを思い出して帰ってしまった。だから、本当に数分の間にふたりきりになってしまったのだけれど、はそのことに一言の感想ももてないまま――例えば、嬉しいとか恥ずかしいとかそういった類のものを――ただ少し困り果ててコーヒーを飲んでいた。
殿。もう一度、困り果てた声でケロロが呼んでくる。


「なに?」
「……なぁんか、視線を感じるんでありますが」
「そう? 幽霊ちゃんはいないみたいよ」


抜け抜けと言い切って、さも当然だという顔をする。けれど彼はこちらを見ないから、声だけの演技になってしまった。アカデミー賞ものだったかもしれない名演技だったのに。
ケロロは左手をゆっくりと、持ち上げて後頭部を掻いた。いやぁ、そうじゃなくて、さぁ。


殿の、視線が、ね?」


ね、と言われてもねぇ。理解できないはコーヒーを口に含んだ。


「我輩の自信過剰なら笑ってくれていいんでありますが」
「うん。大笑いだね」
「いやいや、人の台詞は最後まで聞いてよ。笑うのはその後っつーことに」
「……へぇ?」


淡々と響く自分の声。どこにも嬉しさや気恥ずかしさなどは除かせずに、無地のタオルみたいに面白みもなく、ここにいるだけの無機物になりたかった。彼の背中を見ていたい。
あの儚い背中は凍りつくほどに無情を秘めている。冷たくて愚かな問題とそれ以上に大切で温かくて厄介なものを背負い込んでしまっている。おろしてしまえば楽なのに、それをしない彼の背中は、だから魅力的なのかも知れない。


殿」


男の人のものではないみたいな、高い声が気に入っていた。
モアちゃんみたいに純情で一途な思いではないし、タママみたいな情熱もこもっていないけれど、わたしはわたしなりに彼を気に入っている。
けれどケロロはどうだろう。わたしを気にいってくれているだろうか。名前を呼ばれても返事をしないようなわたしのことを彼はどう思っているのだろう。


「ケロロは宇宙みたいね」
「は?」


間髪いれずにケロロが首を傾げた。小さな後頭部が、少しだけ右に傾く。


「果てしなくて、そこにあるのに遠くて、当然のように掴めない」
「えーーーーーっと? 殿。いつから電波な会話ができるようになったんでありますか」
「失敬な。詩人って言ってよ」


言い返すと、やっとケロロが笑った。背中しか見ていないからわからないけれど、くつくつととても可愛らしい声がしたから笑っているのだと思う。


「いやはや、殿にはいつも驚かされるでありますなぁ」
「そう? わたしにはケロロたちの存在そのものが驚きだけどね」
「ま、宇宙人でありますからして。それは仕方ないっしょ」


くつくつと、笑ったままケロロが立ち上がった。三頭身くらいしかない身長は、ちょうど座ったわたしより少しだけ高いくらいだ。彼は今まで背中を向けていたとは思えない身軽さで――まるで今までだって面と向かい合っていたような感じで――くるりと振り向いてわたしをひたりと見据えた。それからたった一メートルの距離を容易に縮める。その距離が地球と宇宙とを隔てるオゾンとかそのようなものであるならば、彼はいっきにすべての法則を無視したことになるだろう。


殿?」
「……………なに」
「我輩、うぬぼれることにしたであります」


にっこりと口元をわかりやすくあげてケロロは微笑む。法則を無視した笑顔に、がらがらとなにかが壊れる音が聞こえた。壊れたなにかを言いあらわすのなら、それはお茶を淹れにいったモアちゃんであったかもしれないしお菓子を取りにもどったタママ、それに四人で保っていたこの部屋の今日の雰囲気とかそのようなものだったと思う。宇宙と地球の間にあったすべてのものたち。


殿、宇宙を手に入れてみるつもりはないでありますか?」


彼は間にあったものたちを知りながら、それでも知らんふりをして距離を縮めわたしに手を伸ばす。距離を縮めることもせずに伸ばされた手にきょとんとしたわたしは臆病者だった。けれどやはり地球人が宇宙に恋焦がれてやまないように、わたしも彼に焦がれていたのだ。
だからその手に自分のものをすべりこませたとき、とても安心したし興奮したのだと思う。


「ゲ〜ロゲロゲロ。侵略成功であります!」


子供のようにハシャいだ声を出すケロロは本気とも冗談ととれる声をだして、握る手を強めた。たぶんもうすぐ、わたしと彼とを隔てるオゾンとかその他もろもろのものが帰ってくる。けれど決してわたし達の間に、もうその他もろもろが入り込む余地などどこにもないのだろう。
わたしはアカデミー賞ものの演技力をもってして、そして彼はいつもどおりの彼を演じきれば、法則を無視した世界はそれでも潤滑に進んでゆくのだ。























悠遠





(08.08.31)