果てしなく意味がない、けれどだからこそ愛おしく価値のあるため息だった。 「殿?」 彼はわたしを「殿」と呼ぶ。何か大切なもののように呼ぶのではなくて、彼が他人を形容するときに人が「ちゃん」や「さん」付けで呼称する感覚でそう付け足すのだけれど、わたしはその「殿」が好きだった。多分、イントネーションや言葉の上がり下がり、節のつけ方が絶妙で、わたしはいちいち彼の声にうっとりするのだ。あぁ、また名前を呼ばれたなぁ、と頭の隅でじんじんと感動する馬鹿な脳みそをちゃんと理解しながら。 「なぁに、ケロロ」 「殿、ちょっと聞きたいことがあるのでありますが」 ちょこちょこと駆け寄る彼の小さな足先、身振り手振りばかり大きい小さな指先。わたしはそれらだって、胸が高鳴るほど好きだった。丸い顔は驚くことも笑うことも泣くことも素直に表現するので、わたしはそれにいちいちうっとりする。例えば彼が泣いていたとしても、わたしは笑えるのだろうと思うほどの愛の深さを持ってして、微笑む。 会話の流れはいつも、あとから思えばどうということもない内容だ。宇宙人である彼がわたし達の日常を面白がることなど日常的だったので、何も持っていなかったわたしは、いつもの自分を保つだけで悠々と彼の傍にいられた。無理に何かを詰め込んだり、付け足したりするのではなく、本当に自然のままで。 「殿はいつも笑っているのでありますね」 いつか、彼に言われた言葉だ。えぇ、だって幸せなんですもの。わたしはそう答えたのだと思う。きっぱりと、けれどうっとりしたままで。 ケロロが何を言いたかったのはわかっている。わたしがふわふわと浮いている不安定な場所を、彼は知っていた。彼はおどけたふりをしているけれど真実に賢くて、見ないふりをして手を振ってくれるほど優しくない。 「今も幸せでありますか?」 「えぇ、本当に。わたしはいつだって幸せよ」 唇を引き結び、綺麗な弧を描かせてわたしは笑う。ルージュを引いた唇がつやつやと輝いていることだろう。それなのに、ケロロはその光を嫌うみたいに顔をゆがめた。 「…………嘘、でありましょう?」 ケロロが曖昧に―――これまでに見た、どんな表情よりもぬるい笑い方で―――微笑んだ。 わたしはその顔を見た途端に、笑っていた口元がひきつる。 「幸せよ。…………今は」 そして強情をはるように付け足した。今は、というのは、彼がここにいてわたしがここにいる現在は、という意味だ。 ケロロはわたしが吐き出した言葉をきちんと体に取り入れるような間をあけたあと、体全体を使ってそれは大きなため息をついた。肩を大きくあげて、唇は空気をこれでもかというくらい吸い込み、肺に収めた酸素を全部吐き出そうとするような、部屋全体が生まれ変わるみたいなため息だった。 「やぁっと白状したでありますな」 すっきりした顔のまま、ケロロは片腕をあげた。差し出されたわたしは、けれどその手を取ることを逡巡する。頭では理解していたのだ。取るべきはこの腕ではないのだと。 「予定とは違うかもしれないのでありますが」 本当にこんなものは予定に入っていない。わたしはドレスの裾をきゅっと握る。フレアの美しいウエディングドレスの白は、目に痛々しい。 それなのに、ケロロは清々しく笑っている。すっかり部屋の空気は変わってしまって、今やわたしのふわふわと浮いていた場所はあとかたもなく吹き飛んでしまっていた。視線の先で笑う人と一緒にいることが幸せだという事実以外を残して、わたしは素足で地面に立つような心もとなさに襲われる。 わたしのそんな不安をはかるようにして、ケロロが笑みを深くした。 「我輩の腕をとって欲しいであります。大丈夫。殿の幸せはここにあるから」 確信と傲慢な自信を持ってケロロは告げる。わたしは元々傾いていた心がとうとう倒れるのをわかって、彼と同じように深いため息をついた。 幸せがあなたと一緒にあるって? 冗談じゃない。 「……………知っていたよ。ずっと前から」 しびれる腕を無理やりあげて、彼の細い腕にすべりこませる。わたしの幸せはまたため息をつく。愛おしいすべてが揃った彼は、わたしを教会から攫った。 誓うべきはずの愛はすべて攫われたので、わたしは神に祈ることをやめようと心に決める。果てしなく意味のない、けれどだからこそ価値のある愛おしいため息と共に。 |
joker in the pack
(09.02.17)