まったく嫌な仕事を請け負ったものだ。はつい先ほど友人であるプルルから受け取ったカルテに目を通しながら、小さなため息をつく。カルテはごく一般のもので、ケロン軍の階級と名前と所属部隊が書いてあった。もちろんそれがガルル小隊のものだと受け取る前からわかっていたし、プルルの部隊に彼がいることも知っていた。にとってあまり会いたいとは言えないその人物がいたのに仕事を請けたのは、プルルの多忙さを知っていたからだ。有能な人物と言うのは目をつけられるもので、彼女は同僚の三倍近くの仕事をこなしながら働いている。だからこそ嫌な人物がいるとわかっていたが仕事を退き受けたのだし、渡されたカルテは一人分だったので四分の一の確率にかけてもいた。けれど結局、彼女はその確率に裏切られることになる。
「えぇと、左腕の神経検診を行いますね」
カルテの、つまりは会いたくなかった人物に出来るだけにこやかに接しながらは言った。目の前の人は言われていることを理解しているのか、一言も返事をしてくれない。本部に備えてある個別に仕切られた診察室の丸くて回る椅子に座りながら、ゾルルは微動だにしない。動かず口もきかないので、もしかして頭の方も機械なのかしらとは思った。
「じゃあ、とりあえず腕をあげていただけますか」
「…………」
「ゾルル兵長? あの、プルル看護長ではないことが気に食わないのかもしれませんが、検査はすぐ済みますので指示にしたがってください」
「…………」
返事はなく、げんなりしたことを悟られないように心の中で本日二度目のため息をつき、カルテに目を通しなおす。プルルの几帳面でくせの少ない文字を読みながら、ゾルル兵長に言語障害ないことがわかると更にうんざりした。コミュニケーションに問題はないとわかるほど、この状態が彼による故意だとしか思えない。仕事柄、心を閉ざしてしまった方々の面倒はよく見るのだが、この場合は違っている。患者にはなんのためらいもなく優しくできるが、個人的なわだかまりを感じてしまう彼を前にすると寛容な心がどこかに行ってしまうのだ。
「…………今日ハ」
カルテを三度読み返したところで、ゾルル兵長がぽつりと零した。意外に通る声と高さに驚く。
「泣イて…………ないん、ダな」
けれど発見に奇妙な感動を覚える暇もなく、にとっては一番理性を無くさせる内容をゾルル兵長は言ってのけた。あれだけの沈黙を保ち、こちらのいうことなど耳を貸さず、あらゆる言葉の中からわざわざ選んできたのがそれなのか。喧嘩を売られたと感じたにとって彼はもう、患者ではなかった。
「腕、あげてください。各部に電流を流しますので違和感を感じる場合は仰ってください」
機械的な動作で彼の左腕をあげて、専用のパッチをあてていく。手早く、迅速に動きながらは眉をさげて目を吊りあげるよう意識して仕事をした。鈍感な彼にもわかるように自分が怒っているジェスチャーをしたのだ。その甲斐あってかゾルル兵長は大人しく診察を受けていたし、真面目な反応もしてくれた。はじめからそうすればいいものの、とはまた心の中だけで舌打ちをする。
「各部正常に機能していますね。診察は終わりです。ご苦労様でした」
ご苦労様なのはこちらなのだが、は職務上の規則を破らずにそう告げた。見事な仕事ぶりに自分自身を褒めてあげたい。彼にとっては何気ない一言だったのかもしれないが、は自分が怒るに相当なことを言われていると感じたし、なにより彼がしれっとそんなことを言ってのけたことにも腹が立った。
彼にとっての印象が泣いている姿だったとしても、少し考えればいつも泣いている女なんて存在しないことがわかるだろう。考え事をしながらも手を動かすのはやめず、思考を中断させるころには身支度はすべて整っていた。相変わらず丸椅子に腰掛けているゾルルは、がなぜそんなに急ぐのか不思議だとでも言うようにこちらをじっと見ている。
「それでは失礼します、ゾルル兵長」
ふん、と勢いよく反転して扉に向かう。チェックを済ませたカルテをしっかり持って。
その様子を最後まで、ゾルル兵長は黙ったまま見送った。
「プルル」
医務室の奥、窓の光が辛うじて届く場所に机があるプルルの場所まで行き、カルテを差し出す。彼女はあきらかに仏頂面で戻ってきた友人にいささか驚いて、けれど一方では予期していたことだという風に苦笑してそれを受け取った。カルテにはプルルの字とは似ても似つかない、書きなぐったような荒っぽい字が加わっている。
「どうしたの、。怒ってる?」
「怒ってるも何も…………最悪だわ」
隣の机に手をついて、むかつく胸を押さえるような仕草をした。
「ねぇ、プルル。もしかして知っていたわけではないわよね」
「…………何が?」
「ゾルル兵長が、わたしが泣いているところを見たってこと」
こうなれば知っていようがなかろうが構わなかった。きつくなることだけはしないようにと心がけたつもりだったが、自分の声に棘が含まれていたことに気付いたのは言ってしまった後だった。プルルは困ったように笑ったまま、その笑顔で充分答えにはなっているのに、彼女らしい律儀さで頷いた。
「ごめんなさい。ゾルル兵長から聞いてたの」
プルルの告白は、つまり今日の検診には何かしら意味があったことを示すものだった。彼女には泣いていたわけを話していたし、賢いプルルならやんわりと詮索を濁すという手段も使えたはずだ。それをせずに敢えて彼に会わせたのはなぜなのだろう。胃に溜まっていたムカつきを少しだけ減らして、は純粋に尋ねてみた。すると、プルルはもっと困ったような微妙な表情を浮かべる。
「ゾルル兵長がね、あんまりにもしつこかったものだから…………」
「わたしに対して?」
「そう。元気なのか、とか。どうしてる、とか」
プルルによれば、そんなに様子が気になるのだったら自分で確かめろという意味で検査をにお願いしたらしい。ゾルル兵長はそれについて不平は漏らさなかったし、もちろんが検査をしている間は、なるべく穏便にすませると約束もした。
今日は泣いていないんだな。
検査を受ける前に言われた言葉を思い出し、なぜか彼の言った言葉がしみじみと親しみのこもったものに聞こえてきて、は知らずに嫌な顔をした。
ゾルル兵長に泣き顔を見られたのは、三年付き合った彼氏を振って、気分がのらなかったので徒歩で家まで帰る途中のことだった。それまでは不快感よりも軽いもやのようなものが頭と言わず胸と言わず溢れていたので平気だったのだが、なぜか道を歩く自分の影を見た瞬間に堰を切ったように涙が流れてきた。ぼろぼろとみっともなく落ちてくる雫に対処できず、は立ち止まりどうにか涙を止めるためのあれこれを試したが無駄だった。結局、道の隅に寄って通行人の邪魔にならないことくらいしか出来なかった。そんなとき、彼が目の前で立ち止まったのだ。
彼は心配などしていない表情で、ただ「大丈夫、カ」と小さな声で聞いた。
「大丈夫に見えるなら、あんたの目はおかしい」
「え?」
「そう言ったの。彼に初めて会ったとき」
むしゃくしゃしていたし、通りすがりの彼に優しくされる謂れもなかった。だから突き放すようにそう言った。けれど彼は少しだけ目を開いて、やや表情を表したあとに「それもソうだ」と言ったのだ。その後、ゾルルは泣き止まないを近くのファミリーレストランに連れて行った。
「ファミリーレストランよ? 信じられる?」
ぼろぼろに泣いていたのでメイクは剥げていたし、それを抜かしてもひどい顔だった。それなのに彼は無理やり店に連れ込んであまつさえ通行人が大勢通る窓際の席を選び、安っぽいカバーのソファにを座らせると自分も向かい側の席に座った。それから泣いているをいぶかしむ店員にホットコーヒーを頼んで、黙ってしまったのだ。
「連れ込んでおいて黙ったのよ。わけがわからないでしょう」
「そう、ね」
「だからわたし、もうどうにでもなれって思ってね。どうせだからムカついたこと全部しゃべっちゃったのよ」
別れた理由である彼氏の浮気について散々語り、もう男なんて信用するものかと息巻いた。ずっと泣き続けていただが、夜が白んでくるころには涙もでなくなっていて、運ばれてきたホットコーヒーも随分昔に冷めてしまっていたことをようやく知った。
一晩、だ。よく知りもしない人と、一晩話し続けてしまった。しかも一方的に。彼は相槌すら打たなかった。わたしの捲くし立てる言葉を、空気のように吸い込み続けていた。ようやく話し疲れたわたしにタクシーを拾ってくれ、運転手に金を渡すときも彼は必要最低限のことしか話さなかった。
家に帰ってたっぷり眠ったあとで、自分がなぜあんなに話してしまったのか後悔した。誰も見ていないのに赤面し、借りたままになってしまったタクシー代とコーヒー代をどうしようかと悩んだ。けれど彼がケロン軍にいると知ってしまうと、途端に恥ずかしくなって会うことができなくなったのだ。
「…………。意見を言った方がいい?」
「ごめん、言わないで」
自分の怒りが結局理不尽であることを思い知って、はプルルから視線を逸らした。
一晩泣き続けた女について、彼がどのような経緯でケロン軍にいることを知ったのかはわからないが、それにしても気にかけてくれていたなんて人が良すぎる。
「あぁ、もう! ごめん! プルル、わたしもう一回行って来る!」
どこにと告げずに走り出したの後ろから、プルルがガンバレと言うのが聞こえた。
もういないだろうと思ったのに、先ほどの医務室にゾルル兵長は残っていた。丸椅子に座ったままの同じ格好で、が扉を開けたことに少々驚きながら。
「どうシた?」
「そ、れはっ……こっちのせり、ふ……!!」
体力がないのですぐに息が切れた。先ほどまで自分が座っていた椅子に腰を下ろすと、本当にさっきと丸きり同じくなる。彼は大人しく、わたしの言葉を待った。
「…………その、言い忘れましたけれど、この間はありがとうございました。ひ、一晩も話したし…………タクシーも拾っていただいたし」
「あァ…………お前はよク、喋っタ…………」
赤くなってゾルル兵長を見る。けれど彼の表情は柔らかく、うっすらと微笑んでいるようですらあった。
「あの…………お礼に」
あんまりにも彼が優しい表情をするものだから、自分だって優しくしたいと感じてしまう。
「お礼に、コーヒーでも飲みにいきませんか。えぇと、結局飲めなかったし」
冷めてしまったコーヒーは結局飲むことなく店を出た。ゾルル兵長は少しだけ考えて、わたしの顔をゆっくりと見てから、軽く頷く。
「お前ガ…………まタ、話スなら」
「そんなに話しませんよ。今度はゾルル兵長が話してください」
「俺ハ…………苦手、ダ」
つまらなそうに視線を流した彼が子どもっぽく見えて、わたしは笑う。
「じゃあ、ゾルル兵長が話してくれるまで一晩だって粘りますからね」
冗談めかして言ったことに本気で悩み始めたゾルル兵長に、は声を出して笑う。
後日、改めてコーヒーを飲みに出かけたのは、やはりファミリーレストランだった。
(08.02.22) ゾルル兵長は聞き上手だといい。笑ってほしいキャラナンバーワンは彼です。
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