緊急入院。文字で表せばたった四文字の出来事が、一日で起こったすべてだった。
入院させられたのはだった。昨日まで何のことはなく過ごしていたというのに、だるいと言い出して病院で検査してもらった途端、彼女はまったく健康体ではなかったことを告げられた。本当に、晴天の霹靂とはこのことだった。
「トロロ、なんかびっくりだね」
ボクだって驚いてる。彼女のベッド脇で、トロロは呟いた。はいつものように暢気に笑い、自分におきていることがまったく理解出来ていないと笑った。
現実は急速に彼女の物語を終焉に向かわせているように思えた。登場人物のことなどお構いなしに。
「不思議ね。あと何日かの命なんて信じられない」
ボクだって信じられない。やっぱり呻くように小さな声でトロロは言う。医者は無慈悲に彼女の病気がひどく進行していて手遅れであると言った。可笑しな言い草だと思った。手遅れだなんて、まるで彼女が何か大事なことを怠ってきた結果、そんな病気になったような言い方だ。手を出すことが当たり前だったような、勝手な言い分だ。
は入院してから一度だって泣かなかった。もちろんボクの前では、という意味だ。ボクが帰ってから泣いているのかもしれないし、本当に彼女は自分の体がもう「手遅れ」であるほど病んでいるという事実を受け入れられないのかもしれない。の存在は病院の中ではとても浮いていた。そこだけが生気に満ち満ちて、不似合いなのだ。
「あのね、考えたんだけれど、わたしは幸せかもしれない」
突然、がそう言った。トロロではなく、窓の外を見ていた。
「わたしはトロロを忘れない。死ぬってどういうことかわからないけど、トロロのことを忘れたりしないわ。思い出になんか、しない」
きっとボクのほうが心細い顔をしていたのだと思う。はこちらを向いて笑った。
「一秒だって忘れないから、わたしはトロロを思い出すことなんてないのよ」
そう言って、泣き出したいくらい眩しい笑顔で笑った。ひとしきり笑ってから急に真面目な顔になって、「でも」と言った。
「でも、トロロはそんなことしなくていいから。思い出にしてくれて構わないから」
否定したかった。忘れるものかと言いたかった。の言うように自信満々に、一秒だって忘れないと言ってやりたかった。けれど、ボクは結局彼女よりも早く泣き出してしまってその先に続く言葉を完全に見失ってしまった。
は物語に追いついてしまったのだ。主人公を得た物語は急激な展開を容赦なく進めていく。ボクはその中の登場人物であることに変わりはないはずなのに、やっぱりついていけなかった。白ばかりの部屋で安っぽいベッドに横たわる、窓の外を見る横顔、日に日に力を失っていっているはずなのに変わらない笑顔。見守ることしか役割を与えられなかった非力な自分自身。
ボクはいつしか怖くなっていた。病室の扉を開けることが、その事実を受け入れてしまうことが、もう出来なくなってしまっていた。この扉を開けてしまえばがいて、たぶんまた笑ってくれるんだろう。ボクを一秒たりとも忘れないでいてくれるが、ボクを思い出にしないでいてくれるが、ボクにとっては思い出になってしまうが。
扉の前で、ボクは絶望に似た落胆を味わう。あぁ、ボクも物語に追いついてしまった。
全部を受け入れたら、のように笑えるだろうか。あんなに力強く、あんなに優しく。
それとも、二人で泣いてしまうだろうか。惨めに、非力だと感じて人生を恨みながら。
あぁ、あぁ、どうかボクの中での思い出が、ひとつぶも遺さず永遠でありますように。
(08.02.22) トロロは本当は優しい子だと主張したかった。
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