「わかっているよ」
狭い部屋の中で、重苦しい空気を吸い込んでたっぷりと陰気な音を含んだ声が、当たり前のようにわたしの耳に届けられる。当たり前と言うのは、例えばこの言葉をわたしが望んでいると、彼が勘違いしていることから感じられることである。
わたし達がいる空間は、畳み8畳ほどの面積しかなく、二人の間は区切られているものだからやたらに狭く感じた。しかもこの男ときたら向かい合わせに座らなければ我慢ならないらしく、わたしはこの窮屈な部屋で面と向きあわせられている。視線を下げることもはずすことも許してくれない男はエリートらしく生真面目で、融通の利かないところがキライだった。
「」
「・・・・・・・・・・・なに」
そちらに息を吹きかけるように、大きなため息と一緒に返事をする。彼が眉を一瞬だけ潜めたのがわかった。
淑女らしくないな。ガルルはあんまりにも無茶な注文をする。
「・・・・・・・・・・いい加減諦めれば。あんたも暇じゃないでしょう」
「理解してくれていたのか。もちろん、私には山のように仕事がある」
「だから、わたしは諦めろと提案しているんだけど」
この男はまったく人の話を聞かないくせに、人の行動にはいちいち難癖をつけたがる。苛々し始めたわたしが机を人差し指でたたき出すと、静かに制止の声がかかった。理由はやはり女性であるからとか下品だとか、その類いのものだ。そしてやっぱり人の提案には答えようとしない。人格権の無視と言われても仕方のない態度だ。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
初めて会ったとき、わたしは名前を呼ばれるのが嫌だと言った筈なのに、この男は性懲りもなく呼び続ける。うんざりするのを通り越して、ガルルと同じ空間にいるというだけで吐き気がするようになったのは三度目の訪問のときだった。15回目を境に数えることを止め、吐き気も収まり頭痛に取って代わったのだが、それをコイツは知っているのだろうか。
わかっていると言い張るのだから、この男はすべてを知っているのかもしれない。だからわたしは絶対に教えてやらない。会うことよりもその言葉をキライだということも、絶対に言ってやらないことに決めている。
「わかっているよ」
あぁ、不快感に身をうずめるようだ。
ガルルは満足げにそう言った後、鋭い視線を向けてくる。まるで見透かしているのだとでも言うように、鋭くきつく、言葉とは裏腹に安心させる気などないような視線だった。
この男と共にいると、心臓がはっきりと血を流すのを感じられる。古傷だと思っていたものからさえも、未だにじくじくとふさがることなく血を流しているのだ。いつもならそんなものには頓着せずに、むしろ気にすることもなく過ごしているはずだというのに、この男が「わかっている」と口にするたびに心臓からは鮮やかな血が流れ出してくる。もう血など残っていないくらい傷ついているのに、赤く色づいた生々しい温かな液体が体の内側を滴り落ちて沈んでいく。
わたしはなるべく表情に何も浮かべないようにして、努めて慎重に唇を歪めた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・あなたが、何をわかっているのかがわからない」
正直に答えると、ガルルはもっともらしく頷いた。満足しているのか、それとも答えになどなっていないことに腹を立ててでもいるのか、わたしには計り知れない表情で――理解したいとも思っていないが――頷いてみせる。
「君が、傷つかない現実だけを受け入れたいだけだということを、私は知っている」
牧師よりも親切に、教師よりも根気よく言い続ける彼はいったいどうすることが望みなのだろう。わたしが改心して、懺悔でもし出せば彼の願いは成し遂げたことになるのだろうか。また心臓がひどく痛み出して、その反動でこみ上げてくる笑いを抑えられなかった。とても卑屈なせせら笑いが狭苦しい部屋の中に高く高く満ちていく。
「あんたは心底救えない、大馬鹿野郎ね。ガルル」
「・・・・・・・・・・・」
「そんな目で見たって知らない。わたしがビビれば満足? それともアンタの言う淑女らしい振舞いをすれば、解放してくれんの? ………………違うでしょ。だったら、こんなことする必要なんてない」
「・・・・・・・・・・・君は」
わたしの笑い声で一気に酸素を失った部屋は、ガルルの重苦しい声には耐えられそうにない。今まで何かと我慢してきた鬱憤が、噴出して胸からあふれ出してきた。止める気もなかったのでそのまま吐き出してしまえば、それほど不都合があるとは思えなかった。理不尽を受けていたのはこちらだ。
「君は・・・・・・・・・・・・いつになったら、私の言葉を受け取ってくれるんだ」
「はぁ? ガラス一枚で聞こえない距離だとでも思ってんの」
「そういう意味ではない。・・・・・・・・・・・・むしろ、これでも離れすぎているくらいだ」
ガルルは苦しそうに口を引き結び、わたし達を隔てている薄く硬いガラスに右手をぺたりとつけた。まるでこちら側からも手をつけなければいけないと思わせる強引さだ。そんな気はないので、わたしはその指をしげしげと眺めるだけだけれど。
「こんなガラス一枚で、私という存在からの言葉は一切届かないんだな」
笑っているのか嘆いているのか、判別しかねる声だった。わたしはただ彼の指を眺め続ける。ガルルの言うように、わたしの心に響く言葉を一切彼は持たない。不快感だけを去来させるテクニックしか持ち合わせていない。ガラス一枚を挟むだけで、彼の存在そのものが自分とは違う異質なものだった。彼の存在を認めてしまえば、それはすなわち自分を認めないことだというような、可笑しな論理が出来上がってしまっている。
「そうよ、届かない。だから諦めて。何を言われたって同情や哀れみにしか聞こえないのよ。アンタみたいなエリートなんて。・・・・・・・・・・・犯罪者の、わたしから見れば」
ガラス一枚を挟んだ先で、ガルルがわかりやすく眉を潜めた。卑屈なわたしはそんなことでは傷つかない。むしろ言ってしまえたことですっきりとした気持ちになっていた。
背後で係りの声がして、面会時間の終了を告げられる。わたしは別れも告げずに椅子から立ちあがって部屋を出る。背中に彼の視線を痛いほど浴びながら。
わかっているよ。
世界で一番キライな言葉だ。そんなものを受け入れてしまったら、どうしたって一人でなど生きていけなくなってしまうに違いなかった。だから彼の言葉を受け取るわけにはいかない。卑屈で馬鹿な自分自身を演じ続けていれば、いつかあの男も諦めるに違いなかった。
彼の言葉とわたしの心は、いつまでたってもガラス一枚を挟んでいて繋がることなどあってはいけない。例え心臓が鼓動を止めて、血が枯れようとも。
(08.02.22) 一人で生きてきた人のお話。ガルル中尉は報われないなぁ。
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