冬の廊下は寒くはないが、人がまばらなせいで自分が目立ってしまう。その閑散とする様子が気に入らなかった。もちろん八つ当たりだったが、今は何かに当たりたい気分だった。
「ゾルル兵長? こんなところで何をしてるの」
柔らかな声の主は、自分の小隊に所属するプルル看護長だった。胸の前、両腕で抱えたいくつかの書類やファイルが仕事中であることを物語っている。ゾルル兵長は彼らしく無言のままで顔だけをそちらに向けて、彼女の問いに答える。
ゾルル兵長の視線の先にはドアがある。重厚感のある木造りの扉の前で、ゾルル兵長はしばらく立ち止まっていた。数人の同僚や後輩がそばを通ったのは分かっていたが、プルル看護長のように声をかけてくるものはいなかった。もともと話しかけづらい人物であるのに、それにも増して今の彼は近づきづらい雰囲気をかもし出している。
視線で示された扉をプルル看護長は一応見る。ゾルル兵長の機嫌は確実に悪い。その悪い理由がこの扉の先にあるのだということはわかったが、彼はずっとそうしているつもりだろうか。
「ねぇ、ゾルル兵長?」
「…………なンだ」
「言っても無駄だとは思うんだけれど」
重くはないが煩わしい書類を一度抱えなおして、プルル看護長は言う。
「ここでこうしていてもは出てこないと思うし、仕事なんだから割り切らなくちゃ」
彼が納得してくれるように、出来るだけ常識ぶって言ってみた。ゾルル兵長は面白くなさそうに眉を寄せて、プルル看護長のもっともらしい説明を聞いている。彼も馬鹿ではないからそうすることが最善だと知っていたし、わかってもいた。けれどもっと奥の部分で、納得したくはないし、それが普通のことだとも思いたくない彼がいたのだ。
突然、扉の中から高い笑い声が響く。もう長いこと聞いていなかったような、懐かしい声だ。思わず扉を開けようとするゾルル兵長を、プルル看護長が片手で制した。
「それはやりすぎ」
「…………」
「わかったわ。…………今回は、わたしが助けてあげる」
恨みがましい目で見つめられ、プルルは呆れたようにため息をついた。抱えていた書類やらファイルを乱暴にゾルル兵長に押し付ける。
「持っていてもらえる?」
聞く前に渡したというのにそう告げて、プルルは扉に向き合った。ノブを握り、回す前にまたひっそりとため息をつき、それから指先に力を入れて冷たいノブを回す。扉の開く音が、嫌にはっきりと耳の奥に残った。
閑散とした廊下に扉の中から温かい空気が漏れる。部屋にいた人物がこちらを見た。とりあえず「失礼します」とだけ、プルルは告げる。
「どうしたんだ、プルル看護長」
ソファに座ったガルル中尉が、ゆったりとした笑みを向けて尋ねた。その向かい側に座ったが、右手にカップを左手にソーサーを持ち上げたままこちらを見た。きょとんとした大きな目。プルルは心の中で彼女に謝った。
「…………書類の確認をお願いしようと思いまして」
「あぁ、そんな時間か」
「え? あ、ごめんなさい!すっかり話し込んでしまって」
壁にかかった時計を見上げて、が慌ててカップをテーブルに戻した。それからすっかり身支度を整えて立ち上がると、ガルルに一礼してプルルの隣に立つ。そこでようやく、彼女の背後に立っていたゾルルに気付いた。
「…………何してるの、ゾルル」
本当に驚いた様子でが言って、プルルはやっぱり謝った。もちろん、心の中で。
ゾルルは決して部屋の中には入ろうとしなかった。の質問にも答えずに、ただ顔だけを逸らす。は首を傾げて、思い出したように「それでは」とガルル中尉に挨拶を済ませた。プルルの耳元で「ごめんなさいね」とが囁く。けれどそれがゾルル兵長のことではなく、プルル自身に向けられたものであったので、なんだか無性に彼女が可哀想になった。
を吸い込んで閉まった扉の前で、プルルは盛大なため息をつく。ガルル中尉は対照的に、ひどく面白そうにくつくつと笑った。
「…………ガルル中尉」
「なんだね、プルル看護長」
「…………部下で遊ぶのはやめてください」
特にうちの小隊には、純粋な子が多いんですから。
うんざりした口調で言い放って、扉を閉める前に受け取った書類をガルル中尉の前に叩きつける。彼は眉をあげて肩をすくめたあと、悪びれもせず笑った。
「仕方がないだろう。ゾルル兵長は面白いんだ」
「ですから…………」
「私がもう無くしてしまったものを、彼はちゃんと持っている」
プルルの言葉を遮ってガルルは言う。独り言のように響いたのは、彼が彼女に向けて言ったのではなかったからだ。ガルルはソファの背もたれにゆっくりと身体を沈めて、天井を仰いだ。
「そのパワーは、とても尊いものだろう?」
パワー。が入っていくのを見たか送ったかは定かではないが、ゾルルは彼女がガルルの部屋に入っていくのを確認して、だから出てくるまで待っていたのだ。彼女のカップにはまだ半分ほど紅茶が残っていたし、話は弾んでいたようだったから随分待っていたに違いない。プルルは考えて、それがパワーだというのなら自分にもそれはないなと、頭の隅で考える。それから、扉を閉める直前にがゾルルに引き寄せられたのを思い出す。乱暴と言うには優しく、けれど相手の意見など求めない速さで。声を出すよりも早く、ゾルルの腕の中に収まったはまだ部屋の前にいるのだろうか。
プルルは先ほどまでが座っていたソファに腰を下ろした。
「私にも紅茶、淹れてくださいます?」
とりあえず数分は扉を開けられないのだからという意味を込めてガルルに言うと、彼は嬉しそうに瞳を細めて笑った。
「仰せのままに。プルル看護長」
芝居がかった仕草にプルルは肩を落として、こんな上司に目をつけられたゾルルとに同情した。
(08.02.22) こんな上司は嫌だ。
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