突然、恐ろしく寂しくなることがある。
はそれを悲しみの発作と呼んでいた。前触れもなくいきなりやってきて、の体中を悲しみや切なさや、とりあえず一人きりでは居たくない気持ちにさせるのだ。場所も時間も関係ないので、はその対処にたびたび悩まされた。仕事中やそれ以外での公的な場所や友人と一緒にいる場所など、とにかく一人ではないときにそれが来てしまうと自分を上手く保つために必死にならなければいけない。特に、友人と一緒にいるときに発作が起こってしまうと、「ではこの人はわたしにとって一体なんなのだ」という気分が溢れてきて、どうしようもなくなる。
今日のように夜中、寝る前にふと窓の外に浮かぶ月を眺めているときに発作が起きてくれるのが一番いい。友人を傷つけたかもしれないなんて罪悪感を背負わず済むのだから、とは思う。


「それで、まぁたオイラのとこに来たんすか」


呆れた口調でタルルは湯気のたつカップをに渡しながら言う。困った顔をしているのだが、が彼の住むアパートのインターフォンを押したときには驚いた顔ひとつしなかった。もちろん困った顔もせず、頭をかきながら中に入れてくれたのだ。


「来るなとは言わないっスから、とりあえず連絡してくださいよ。こんな真夜中に、女の人がひとりで出歩くなんて危なっかしいし」
「…………ごめんなさい」
「あと、いくら急いでいたからって上着くらいは着て」


とりあえず寝巻きのままという状態ではなかったが、は薄着だった。タルルに会いにきたくせにドアを開けて招き入れても悩んでいるような表情で立ちすくむを、無理やりに引き入れたとき触れた手が冷たかったのを思い出す。彼女の前にどっかりと座り、カップを両手で包む彼女の指先がほんのりと赤く色づくのを安堵しながら見た。


「ご、ごめんね。タルル」
「いいっすよ。謝んなくて」
「でも、タルル、明日もお仕事あるのに」


遠慮がちに言ったの言うとおり、タルルは明日も仕事があって朝が早い。ベッド脇の時計を見ると、もう二時を過ぎようとしているところだった。が一層小さくなって、「やっぱり」と呟く。


「やっぱり帰るね。タルルに会えて、落ち着いたし」


カップを手近なテーブルに置いて、は立ち上がろうとする。の表情は彼女が言うように落ち着いてはいなかった。青白く奇妙に怯えていて、歪んだ瞳が痛々しい。
ほとんど反射的に腕を伸ばし、タルルはの腕を掴む。


「嘘はダメっすよ」
「…………で、でも」
「慣れてるから。ほら、黙って」


中腰で立っているを、タルルはふわりと両腕で閉じ込める。そのままあぐらをかいて、を上に乗せた。ついでにベッドから毛布を取り出し背中から被ってしまう。
は目を見開いて、タルルの顔を見ていた。すっぽりと彼の腕の中に収まってしまった自分の体が信じられないというふうにして、けれど嫌だと跳ね除けることもしなかった。


「タ、タルル?」
「なんすか」
「あ、の」


平然としているタルルに、はなぜか二の句が告げなかった。突然が尋ねてくることはあったが、こんなふうに抱きしめるのは初めてだった。ついでに言うのならとタルルは付き合っていなかったから、こんなふうに密着するの自体はじめてで、だから彼女は戸惑っているのだとタルル自身もわかっていた。いつもなら他愛もない話をしたり、一方的にタルルが語ったりするのが常だった。
腕の中で視線を忙しげに動かすをタルルは見つめた。


「この前…………トロロんとこ、行きましたよね」
「え?」
「聞いたんすよ。夜に会って、そのまま朝まで話してたって」


ちょうど自分だけが他の星に仕事に出向いているときで、トロロの話でははコンビニにいたのだと言う。おかしく思って声をかけたら、あんまりにも心細そうにするものだから、そのまま朝まで近くのカフェに入って話した。彼女はあまり喋らなかったがそれでもいくらか表情をゆるめたのだと聞いたとき、言い知れぬ苛立ちを感じた。あんまりにも単純に後輩に嫉妬したタルルは、けれどそんな自分を認めることも出来ずに今日に至る。
はタルルの腕の中で出来るだけ彼に負担をかけないように小さくなりながら、頷いた。


「う、うん。トロロ君が、朝まで付き合ってくれて」
「…………ふぅん」
「タルル?」


悪びれもせず言うを、腹立たしく思った。彼女が情緒不安定なのはわかっていたが、抑えることができない。


「…………結局、は誰でもいいんすか」


空気に触れた自分の言葉は、思ったより冷たく聞こえた。ひどいことを言っている自覚はあったが、言わせているのはだと思ってもいた。の弱音を聞けるのは自分だけだという自負をあっさり奪われてしまったことが、許せなかった。


「あ、あのね、タルル」


の声は弱々しい。当たり前だ、まさに弱っているのだから。タルルは冷えた頭で思う。小さく丸めた背中を少し伸ばして、はタルルを下から覗いた。


「違うの。あ、あの日はね? タルルのところに来たんだけれど誰もいなくて」
「…………」
「帰ろうとしたんだけれど、その、帰ってしまっても出てきたくなっちゃうだろうから…………人がいるコンビニにしたの。そしたらトロロ君と偶然会って」
「…………」
「だからね、誰でもいいわけじゃないの。偶然じゃないの。偶然会った人でいいわけがないの。わたしは、わたしはね」


最後の言葉を待てずに、タルルはを抱きしめた。あんまりにも必死に言葉をつむぐ姿が追い詰められていて、それをしているのが間違いなく自分だと言うことが悲しくなった。これ以上ないほど体を密着させながら、はタルルの肩の上に顔を出した。


「タルル?」


情緒不安定なのは自分の方かもしれない。タルルは力いっぱいを抱きしめながら思った。こうやってを抱きしめていると安心して、そのくせ泣きたくなる。こうしているのが普通ではなくて、もうこうすることはできないかもしれないという事実が重くのしかかってくる。
は一向に返事をくれないタルルの腕を、辛うじて動かせる左手でさすった。


「ねぇ、タルル」
「…………」
「タルルの腕の中は、とても温かいのね。たくさん話をしたけれど、初めて知った」


無理な体勢で抱きしめているのに、はそんな不平を言わない。タルルはいくらか落ち着いて、腕をゆるめてを解放した。膝の上で、はただタルルの顔を覗き見る。
タルルは自分でもわかるほど弱々しく笑った。


「嫌だったら、殴ってもいいっすよ」
「なぜ?」
「…………拒絶しないんなら、オイラ、もっとひどいことをすると思うから」


たぶん、ではなく、確実に。タルルは腕の中のに念を押すつもりでそう言った。彼女がこれで帰ると言えばそうさせるつもりだったし、そうなればこんなふうにもやもやと苦しくなることもないのだと思った。
はいくらも表情を変えずに、少しだけ自分の手元見つめた。


「…………タルルは、それでいいの?」


小さな小さな声で、は言う。視線を上げたの瞳は、先程より強くなっていた。


「殴ったりしないし、嫌だなんて言わない。わたしはタルルがいいんだもの。でも、タルルの荷物になるのは、ひとりよりずっと辛いの」


気丈に見えたの瞳から、自然に涙が溢れた。タルルはその姿が愛おしくて返事が出来なかった。その代わり頬を伝う涙に口付けて、震える体をもう一度包み込む。それから何度か謝って、何度か彼女のまぶたにキスを落とした。謝らないでとは言ったけれど、その返事にもタルルは謝った。あまりにもタルルが謝るものだから終いには笑った。目は赤くて腫れぼったく、それなのに笑うから皮膚が引きつっている。
二人が落ち着く頃には空は白んできていて、笑っているみたいな三日月が浮かんでいた。
あっちの方が上手く笑ってる、とは笑って、タルルも同意して苦笑する。
それからどちらともなく近寄って、初めてキスをした。少し長くてしょっぱい、変なキスだった。



































(08.02.22) 若い衝動。タルルがカッコいいいものはあまり想像できません。