と付き合うとき、ひとつ彼女から忠告されたことがある。忠告と言うか、それはとても簡単な事情の説明だった。
は、多忙を極めている。
見せてもらったスケジュール帳はまさに分刻みの内容がびっしりと埋め込まれていたし、告白をオーケーしてもらった日はオフであったというのにその話をしているときも三度電話が鳴って彼女はてきぱきと指示を出していた。(後から聞いたら、まだ会社に残って作業している部下からの電話だったらしい)
だから彼女が言いたいことは、時間が取れないこともドタキャンをすることも多分にありえる話であり、それを了承してもらえなければ付き合えない、ということだった。もちろんタルルはそんなことならとすぐに快諾した。と付き合えるなんて夢にも思っていなかったので、彼女の忙しさくらい乗り越えられると思っていた。


「ごめんなさい。待った?」


の勤める会社の近くのカフェで二人は待ち合わせをすることにしている。深夜遅くまでやっているそこはの気に入りの場所なのだという。
彼女の仕事は、タルルが考える以上にハードなものだった。軍の仕事も充分にきついと思っているタルルよりも長く労働し、出張も惑星間を行き来するものが多い。睡眠時間は三時間が平均で、それ以上に短いことなどざらにある。


「ぜんぜん。今日は早かったんスね」


気を遣うこともやめてほしいと言われているので、タルルは毎回正直に答える。今回は20分ほどしか待たなかった。いつもなら1時間ほどカフェでぐだぐだと任務の書類などを読んでいるのだが、コーヒーが運ばれてものの数分で現れてしまった。は向かい側の席に着きながら店員に「いつもの」と頼んで、悪戯っぽい笑顔を向ける。


「ビルからあなたが見えたの。だから、部下に仕事を預けてきちゃった」


急いだからどこか変かもしれないけど、気にしないでね。
は身なりを確認しながら、タルルに言う。けれどタルルはその言葉だけで――彼女が自分のために何かをしてくれたと感じただけで――すっかり心に余裕がないので、どぎまぎしながら苦笑するしかないのだ。


「ねぇ、それって次のお休みの目的地?」


運ばれてきたコーヒーに口をつけながら、わくわくした面持ちで聞いてくる。タルルは机の端に寄せてあったパンフレットを広げて、「そうッス」と頷いた。
の予定にあわせるように行動しているが、その内容はすべてタルルにゆだねられていた。彼女のスケジュールの空きはすべて伝えられていて、そのときどきの仕事状況なども細かに教えてくれる。だからどのくらいの場所にどれくらい滞在できるか考えるのはタルルの役目で、はそれを毎回喜んで聞いてくれた。そして必ず予定を話した後に「素敵」と笑ってくれるのだ。


「う、わ。寒い」
「大丈夫ッスか?」


一通り話し終えるとカフェを出た。外は暖かい室内と違ってとても寒い。
が寒そうに手をこすり合わせるので、タルルはその手を握った。少し唐突に、けれどちゃんと手加減はして。は握られた手とタルルを交互に一度見て、ありがとうと囁く。
と付き合ってみてわかったのは、彼女が大人の女性としての品格があるということだった。立ち居振る舞いが美しく、椅子を引かれて座るさまもタクシーを呼ぶためにあげる二の腕も、そっと腕によりかかる所作さえも見とれるほど洗練されていた。
話題も豊富で途切れることはない。かといって知識をひけらかすわけではなくタルルの意見を求めたし、知らないことは素直に尋ねた。こちらが我を忘れたように語りだしても、呆れたりせず熱心に相槌を打ってくれる。だからタルルはと一緒にいる間は幸福すぎて、それ以外のことに目を向けられない。といる時間が大切なのであり、その現実しか見えなくなるのだ。
ただ、の住むマンションに近づくと背中をひやりと撫でるものに気づく。


「じゃあ、ここで」
「あ、そうッスね」


マンションの前で、いつも通りの別れを告げる。は最後まで笑顔を絶やすことなく、身を翻す。そのときにタルルは胃の下のほうに鉛が振ってくるような感覚に陥る。彼女が中に入るまではと決めているのでタルルは動かない。しかし、今日に限ってはマンションに入る前にUターンして戻ってきた。
小走りにかけよってくる彼女に「どうしたんスか?」と尋ねると、彼女は勢いよくタルルの頬にキスをした。


「手を繋いでもらったお礼。寒いから、早く帰ってね」


リップ音も残さずに、寒さのせいでカサついた唇はすぐに離れる。は手だけを閉じたり開いたりして「ばいばい」と小さく言うと、今度こそマンションの中に入ってしまった。彼女の嬉しいサプライズにタルルはやっぱり動けなくなってしまい、結局彼女の部屋の電気がつくまでそこで呆けていた。
胃の中に鉛が舞い戻ってきて、ようやく正気に戻る。からの「さよなら」が苦手なのだ。どうしようもなく孤独になってしまう。幼い自分に耐えられず、彼女と付き合っていることが苦痛にさえ感じられてしまうのだ。ただ、自分の部屋に帰ってとのことを考えると別れるなんて考えられず、だからそれは一時の迷いなのだとタルルは自分に言い聞かせていた。









































(08.02.29)