「そんなことしちゃ、ダメだって」


が笑って、とても穏やかな声をだした。ボクはこの穏やかで甘やかな声が好きだ。頭の芯が抜けてるんじゃないのと言いたくなるほど、能天気の域を決してでないくせにこちらに意見をはっきり言ってくる声。そのトーンをまったく変えずに反論なんかもしたりするから、うっかり「うん、そうだヨネ」と頷きたくなってしまう。可笑しな能力を可笑しな人物に与えるものだと、そこだけは神様ってやつに抗議したい。
だから今も、穏やかに笑う彼女がボクを責めていると理解するまでに数秒かかってしまった。


「ダメって。何が」
「わかってるくせに。わたしよりも何倍も頭がいいトロロだもの」
「本気で言ってるノ?」
「もちろん、半分はお世辞よ」


くすくすと、風に揺れる木立を思わせる静けさでは笑った。ボクは子供のくせにこういう静かに笑う彼女が好きだ。子供のくせに、なんて自分では思いたくないけれどやっぱりジャンクフードが好きなボクは、お笑いも勢いがあるものが好きなボクは、流行りものに目がないボクは、よりもよっぽど子供だと痛感している。
大きなソファに二人で座っていると、はすっと足を折り曲げて自分自身を抱えるように小さくなった。相変わらず穏やかな表情だから、ボクはそれだけで満足する。小隊に属する兵長の無表情や五月蝿い上等兵、何かと注射器で脅してくる看護兵や真面目すぎる中尉たちの表情にもようやく慣れたが、やはりのこの顔が一番好きだった。はじめて会ったときには、なんとなく自分が溶け出していくようで嫌だったのに。


「でも、本当にいけないことだと思うんだ。トロロは戻ったほうがいいよ」


が、ボクを見ずにテーブルに活けられた花をまっすぐに見据えて言った。揺るがない声は女性らしくとても柔らかで、叱ってくる刺々しさをまったく含まない。
こういうの特性も、とても好きだった。ボクは考えなく反発できなくなる。


「それは、ボクが邪魔だってコト?」
「そうじゃないよ。ただ、家出はよくないことだと思って」


家出。がそう口にした途端に、奇妙な違和感が背筋をのぼった。
ガルル中尉と揉めて――軍事機密にハッキングしたことと、レポートをいくつか出し忘れていたことを見咎められて――の家に飛び込んできたのはつい二日前のことだった。は笑って受け入れてくれたのだが、そういえば経緯を話しているときに顔が曇った気がする。


「家出? 違うよ。あそこはボクの家なんかじゃナイ」


感じた違和感をどうにか声に出してみれば、つまりそういうことだった。あそこはボクの家なんかではない。たまたま配属されただけの、仮の宿みたいな場所なんだ。命令があればどこにだって行くし、誰の下にでもつかざるを得なくなるのだろう。上に行くには実績が必要だったし、例え上に上がったとしても自由がなくなれば軍人になったことを後悔すると思ってもいた。だからこの位置――中尉の庇護の下に悠々と羽を伸ばしていられる現状――が最適であるというだけだ。決して彼らに気を許しているだとか、居心地がいいだとかの理由ではない。
は縮めていた体のまま、ボクに視線を移した。その目が、とても悲しそうだった。


「トロロ」
「なんだヨ。どうして、そんな目で見るノ」
「……………どんな目?」


は変わらず悲しそうなまま、「自分じゃわからない」と付け足した。ボクは腕を伸ばしての瞳の傍に触れる。大きな目の、縁をなぞるように指先を動かすとくすぐったいと笑ってくれた。


「とても、悲しそうダヨ」
「そう。………………じゃあ、わたしは悲しいのかな」
「ボクに聞かないでヨ」


つんと面白くなさそうな声が出て、ボクは悔しくなる。こんなふうに子供っぽいところなど、見せたくなかった。


「そうだね。わたしは、多分、トロロに戻って欲しいんだと思う」
「…………どうして」
「だって、あそこはトロロにとって、とてもいい環境だと思うの。わたしと一緒にいるだけじゃ、わからないことだって沢山あると思うし」
「……………………」
「お友達だって沢山いる。トロロは気づいてないかもしれないけれど、あなたはとても柔らかく笑うようになったのよ」
「……………………だから?」


低く唸るような声が出た。ボクは目つきが悪くなるのを承知でを睨む。けれど罪悪感などどこにもなくて、悪いのはの方だった。


「だから、なに? ボクのお守りはもう疲れたってこと? だからアイツラのとこに戻れって言うノ」
「違う。違うよ。トロロ、そんなんじゃ…」
「違わなイ!」


どん、とソファを思い切り叩いた。けれど柔らかい素材が少し歪んで鈍い音をたてただけで、いくらも迫力がなかった。


「違わないヨ。はボクに疲れたんダロ。だから、ボクが戻ってくると困るんダ」
「……トロロ」
「でもどうして? ボクはが言うように社会に出たんダ。がもっと世界を広げろって言うから、楽しいことも新しいことも沢山あるからって……………!!」


言っている内に熱いものが目の縁に湧き上がる。自分が軍に入ったのはハッキングが見つかったからだけれど、その決断をしたのはの勧めがあったからだ。あの微笑のままで、社会にはトロロの知らないことが山のようにあるんだよと言ってくれたから、ボクは軍に入って働いているのに。
無条件に大人になって、そしてとの関係もずっと同じだと思っていたのはボクだけだった?


「なんでそんなこと言うんだヨ!ボクはを守りたくて、だから力が欲しかっただけなのに……………!!」


大した力もない子供のボクがを養っていけるわけもなく、軍に追い詰められたときに自分の無力さを痛いほど理解した。だから軍に入って、すくすくと大人になればずっと楽にを守れるものだと考えていたのに。
その間に君が離れていくなんて、ボクは一体なんのために今までを過ごしてきたっていうんだろう。


「では、もっと進歩したまえ。トロロ新兵」


突然だった。この部屋にあってはいけない声がして、ボクは驚いて振り返る。そこにいたのは紛れもない紫の上官の姿。


「ガルル隊長? どうしテ………」
くんから連絡をもらってな。急ぎの仕事が入っていたのだが、他に押し付けてきた」
「はぁ? なんで、そんな」


隣のを見ると、弱々しく微笑んでボクを見ている。ガルルを呼んだことを裏切りだと責められても仕方ないといった表情で見てくるものだから、逆に責められなくなった。
ガルル中尉が、だん、と足を慣らす。ボクは無様にびくりと震えた。


「癇癪は終わりだ。トロロ新兵」
「……!!」
「お前にはまだまだこなしてもらわなければいけない任務がある。それに彼女に無駄な心配をかけるのはやめなさい」
「……なにが」


わかるって言うんだ。
この上官に、ボクとの何がわかるっていうんだ。どれだけの絆をもっているのかなんてわかってたまるものか。ボクはガルル中尉をにらみつけた。
けれどがそっとボクの腕を掴んでくるから、顔から表情がなくなる。


「ごめんね、トロロ」
「…………」
「でもね、いけないと思ったの。昔みたいに戻っちゃいけないの。トロロはもっと大きくなれるんだから、わたしと一緒にここで停滞してちゃいけない」

「心配しないで、トロロ。わたしだって成長しているの。………お留守番くらい出来るし、ずっとトロロを待ってるっていう約束だって守れるよ」


の声は穏やかで甘やかだった。ボクはその声を聞くといつも観念してしまう。の言っていることはほとんどが正しくて、ボクはいつもその声で癇癪に気づくのだ。
の手を上から握り締める。その温かさに、ほっとしたようにの顔が綻んだ。


「……………長く、待たせるかもしれナイヨ?」
「うん」
「性格だって悪くなっちゃうカモ」
「大丈夫だよ」
「忙しくて、会えなくなるカモ」
「そしたらわたしが会いにいけばいいでしょう?」


はボクの弱音を一々拾い上げて、全部を救い上げてくれる。
ボクはまた涙が出そうになって、ぐっと歯を食いしばった。その瞬間にの顔が近づいて、軽いキスを唇に落とす。


「待ってる。トロロだけを、一生。だから、どうかあなたは先に進んで」


迷わずに。わたしは一緒に進みたいの。

の声はいつにも増して明瞭で柔らかに鼓膜を震わした。ボクはの手を痛いほど握りながら、おっせかいな上官と仲間の元に戻ろうと思った。君の傍を離れずに、それでもこの手を離さない方法を、もっと大人になった自分が思いつくのを期待して。












































(08.05.16)





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