現実が見えてないんじゃないのノ、と言ったのは友人のひとりだった。 わたしは一緒に歩いていたその子に首を傾げる。どうしてそんなふうにいうのだろう、というふうに。わたしはいつも不思議なことがあると首をかしげてしまうクセを持っていて、上司やセンパイにそれは直したほうがいいと言われているのだけど、どうしてもクセというのは出てしまう。大体、わからないことを相手に知らせるのにこんな便利な方法はないのに。 「まぁた首かしげた」 「だってわからないんだもん。どうしてそんなこと言うの」 「見たままを言っただけダヨ。は現実が見えてない。そんな男に捕まってるのがいい証拠だ」 証拠、と言われて握りしめたケータイを指された。わたしはとっさにその小さな機械を手の内に隠す。大量の個人情報と無駄な会話と確かな誰かとの繋がりが全部詰まったそれは、ひどく軽かった。握りしめてしまえば、重ささえ感じられない。 「この前電話が来たのはいつだっけ?」 「…………二週間前」 「それもナニ? 給料日前に金が尽きたからメシ奢ってとかそんな感じだよネ」 「…………でも、わたしが毎回奢ってるわけじゃ」 「違うデショ。そういうお金がかかることを、してないダケ」 びくり、とわたしは肩を震わせる。知っていたしわかっていたことだけれど、わたしが現在進行形で「お付き合い」をしている男性はひどく我侭で無鉄砲で口が悪く、それに甲斐性なしだった。そんな男とは別れたほうがいいと友人たちは言う。口を揃えて異口同音に、駄目男だと罵った。けれどそう言われるたびにわたしだけは守られなければいけないって思ってしまったのも事実で、庇う自分を客観的に見る自分がいつも馬鹿だなって嗤う。自分のことだから、余計に滑稽だ。 わたしはこの小さな友人に微笑む。たぶん、トロロの目には痛々しく映っているであろう笑顔。トロロは可愛らしい顔を歪めて、唇を開く。 「…………あの人には私だけ、とかいうツモリ?」 「ううん。言わないよ」 「じゃあ、あれダ。それでも私が好きなんだから関係ないでしょ、とか」 「言わない。相談に乗ってくれているのはトロロじゃない」 「じゃあ、その顔はなんダヨ。ちょっとは反論してみればいいジャン」 反論を望んでいたらしい彼は、ひどく不機嫌そうに顔を逸らす。わたしはこのとき初めて、甲斐性なしの彼氏を罵っていた友人の誰もが大なり小なりこうやって罪の意識を感じていてくれたのだと知った。わたしの道を正そうと、小さく大きく傷をおってくれた人たちがいるのだと知るとなんて傲慢な遊びだろうと泣きたくなった。 「トロロ、最初はちゃんと好きだったんだよ」 「…………まぁ、そうだろうネ」 「うん。でもいつしかわからなくなって。こういうものかなって曖昧に納得してた。彼もそうだと思うんだ。わたしがそう言ったらきっと否定すると思うけど」 「あー…………うんうん、言いそう」 「だからもう終わりにする。なんだか今、突然思ったの。このまま進んでいっても未来はないなって」 「…………」 「……………………トロロ?」 隣を歩くトロロが突然立ち止まって、わたしも遅れてそれに倣う。 振り返ると、彼はすごく怪訝そうな顔でこちらを見ていた。本当に、と問うような顔だと思ったので「本当だよ」と言ってやる。けれどトロロは真剣な顔をして、可愛らしい身体に似合わず張り詰めた声を出す。 「…………じゃあ、今すぐに別れてヨ」 「今すぐ?」 「そう、今すぐ。ケータイあるんだから電話できるデショ」 「トロロ? いやでも、ゴネられたら面倒だから会って話しないと」 「ゴネるような男ならボクが社会的に抹殺してあげるヨ。だから、ほら早く」 怖いことを平気で言ってのけて、トロロは早くとわたしを急かす。銀色の真新しいケータイを握ったわたしはいくらか逡巡して、着信履歴を探った。彼との交流はやっぱり二週間前で止まっていて、あぁこの人との時間は終わっていたのだなと再確認した。通話のボタンを押しても始まらないその時間は、呼び出し音がなるときもずっとわたしの隣に横たわり続けている。 何度目かのコールで電話を取った彼に―――十数回鳴ったので、きっと彼が電話を取る前に何かしらを考えたことがわかる。面倒だとか、罰が悪いとか思っていてくれたらいい―――わたしは、こんにちはも告げずに言う。別れよう。たった五文字だった。 彼はあからさまに困惑しているようだったけれど、わたしは目の前にいるトロロとがっちり目をあわせたままだったのでそんなことお構いなしだった。とにかく別れたいの。もうわかっているんでしょう。わたし達終わりだって。貸してたお金は返さなくていいし、あげたものも捨てて。それじゃあ、何か言うことはある? 捲くし立てるわたしに面食らった彼は、電話口で「いや…………」と短く告げた。 そう、とわたしも短く応じる。それじゃあね。これでさよなら。もう連絡は取り合わないことにしましょう。あくまでトロロと目をあわせながらそう言ったわたしは、きっとこれまでにないくらい強かった。 通話終了のボタンを押して、わたしはディスプレイをよくよく眺めた。あんなに強気な自分は初めてだった。通話履歴が残っているから、夢でないことは確かだけれど。 「やればできるジャン」 「…………トロロ」 「でもさ、ずっとボクを見ながら言うからまるでボクとの別れ話みたいダッタ」 おどけて笑うトロロに、力なく笑い返す。そうだね。わたしは彼の顔を一瞬も思い出さなかった。トロロばかり見て、トロロのことばかり考えていた。彼のことを考えてしまったら迷ってしまいそうだった。彼にはわたししかいない、なんてひどく同情的な自己満足で終わりのない生活をまた始めそうだった。 トロロはわたしの隣まで距離を詰めて、ぽん、と頭をはたいた。撫でるというより、はたいた、という感触。 「ヨクデキマシタ」 「…………うん」 「にしちゃあ、上出来ダヨ」 「そうかなぁ」 「そうだヨ。……………………ところでさ」 年下のくせに自信満々に言い切る彼は、瞳を細めて笑う。そうすると、彼の瞳の奥が優しく揺らめくのが見えた。 「エリートコース確実の天才が目の前にいるんだけど、ソイツに乗り換えてみナイ?」 「…………え?」 「ちなみに即決以外は却下だから。ほらほらまた首傾げてないでヨ。それ、すごく失礼」 首を傾げるだけでは飽きたらず、まばたきを何度もしてしまう。トロロは随分余裕のある笑みでわたしに問う。時は金なり、っていうダロ。 「みたいなぼんやりした女がボクみたいな優良物件手に入れられるチャンスなんて滅多にないヨ。ほーらどうするノ。ボクってそんなに気が長いほうじゃないヨ」 「え? え? え?」 「それにここまでお膳立てしてあげたわけダシ? これで迷うようならは見る目もなければ決断力もない駄目女ダネ。君に必要な男なんて、考えなくてもわかるダロ」 ほら、と億劫そうにトロロは手を差し出す。自称、エリートコースまっしぐらの天才の手だ。わたしは数度まばたきを繰り返し、彼が「ほら早くしないと…………」と手を引っ込めようとするのを見て思わず握り返してしまった。待って! 握りしめたあとになって、わたしは自分が何をしてしまったのか悟る。 トロロはひどく満足そうな顔をして、差し出した右手―――わたしが両手でがっちりと捕まえた手だ――――とは反対の手で頭を撫でた。さっきとは違う、穏やかで優しい力だ。 「ヨクデキマシタ」 大人びた声で頭を撫で続けるトロロが「じゃあ行こうか」と歩き出す。同時にわたしの止まった時間が動きだした。まったく様変わりしてしまった時間は、けれどとても快調に時を進めていく。手を引かれながらポケットにケータイをしまい、彼はきっとマメに連絡をくれるだろうと考えた。止まることなどない時間が、今始まる。 |
ぼくを虜にした責任は取ってね
(09.05.29)