やたら暑い日ばかりが過ぎて、ようやく夏だと実感し始めたときにその嵐はやってきた。
涼しい風が湿気を多く運んできたと感じた次の瞬間には、見上げた空は暗く濁っていた。先ほどまで果てしない青ばかりが広がっていたというのに、この早変わりはなんだろう。強い風がまた吹いて、潮風でもないのに髪が顔にべたりと張り付く。気分が悪い。半そでから伸びる腕に生ぬるい風があたった。
その日はあいにく傘を持っていなかった。夏だからとわけのわからない理由で一日中晴天だと決め付けた自分に後悔などする資格はないけれど、夕立でびしょぬれになるのも困る。
だから、だるさでゆるゆるとしていた歩調を速めた。顔に当たる風が今度はひんやりとし始める。
「…………………あっ」
遅かった。ぽつりと頬に雫が落ちて、地面にも丸い模様が目立ち始める。
間に合わないと思ったそのときには走り始めていたのだけれど、結局降り始めたときにはまだわたしは外にいた。持っていたかばんを頭に掲げて、意味のない傘代わりにしている自分が少しだけおかしい。(だってどこかのサラリーマンみたいだ)
けれどようやく駄菓子屋の軒先までたどり着いたときには、もうジーパンは変色してしまっていた。Tシャツも馬鹿みたいに重くて、鉛色の空を見ながらげんなりとする。
「………お嬢ちゃん」
止みそうもない雨を眺めながら、濡れた髪をハンカチでぬぐっていると優しい声がわたしを呼んだ。それがなぜわたしに向けられたものだとわかったかというと、そこにはわたししかいなかったし、声と一緒にからからと扉が開いたからだ。
振り返るとわたしよりも一回りほど小柄なおばあちゃんが、瞳を細めて笑っていた。声と一緒でとても優しそうな風貌に、思わず警戒心も弱くなる。お婆ちゃんは柔らかく手招きをしながら、すばやく家の中に非難させてくれた。軒先と言っても横殴りに吹き付けていた雨は弱まるどころか強くなってさえいたから、このお婆ちゃんの行為は有難いものだった。
それからお婆ちゃんは開いているか開いていないかわからないほど瞳を細めながらわたしを奥の座敷に入れてくれた。ジーパンもTシャツも無残なほど濡れていたから部屋を汚すと断ったのだけれど、それならばと服を貸し与えられてしまった。むしろ孫のもので悪いけれどと謙遜までされてしまっては、無下に断ることも出来ない。
そうして着替えもすっかり終わり、わたしは奥の座敷でぺたりと座り込んでいる。昔ながらの丸い木製のテーブルの上には煎餅の入った籠がある。貸してもらったタオルで頭をがしがしと拭いて、懐かしい香りに包まれているとふと可笑しな気持ちになった。
雨が降って雨宿りをしていたら家に入れてもらってここで寛いでいるなんて。
つまらない日常が、なんだか一気に面白くなった気がした、。
「お嬢ちゃん」
「あ、はい」
洗濯物を入れてくると引っ込んでいったはずのお婆ちゃんが襖から顔をのぞかせた。わたしは慌てて居住まいを正す。お礼を言おうとか、お婆ちゃんの名前を聞かなければとかいろいろ考えたのだけれど、それは声にならなかった。視線の先、お婆ちゃんの手前に、見たこともない生物がいる。
「お嬢ちゃん」
「う、え、はい?!」
「この子も、雨に降られて困っていたようなの。申し訳ないけれど拭いてやってもらえるかしら」
わたあめみたいな柔らかな声は、子供の面倒を見ている母親みたいだ。けれど差し出された右手の先にいた小さな生物は間違いなくわたしの知っている子供ではなかった。小柄なお婆ちゃんよりももっと小さくて、二頭身くらいしかないそれは、決まり悪そうにわたしを見ている。姿かたちだけだったら一般の、地球の子供だったかもしれない。けれど地球のどんな人種だとしても肌がオレンジなんてあり得ないだろうし、山奥の民族だって纏う布くらいあるだろう。けれど小さなオレンジの子供は一枚の布さえ体に巻きつけてはおらず、すべすべとした肌に光るしずくを滴らせていた。
わたしは驚いて、お婆ちゃんが出ていったあともしばらく彼を見ていた。罰が悪そうな彼は更に不機嫌になっていく。片手に抱えた銀色のそれはなんだろう。わたしが視線を下げたときに、彼が出て行こうと体をひねった。それになぜかわたしは慌てて、「待って」と声を出す。
「………………なんだヨ」
あ、なんだ話せるんだ。
「体、拭こうよ。じゃなきゃ風邪ひくよ」
「アンタ馬鹿? ボクが普通の地球人に見えるワケ?」
あざ笑うような声は子供特有で高い。ペコポン人と発音されたけれど、わたしはその意味がわからなかった。それからようやく彼が指しているのが地球のことだと知って、宇宙における地球の存在があまりにも可愛らしい名前で収まっていることに一種の感動さえ覚えてしまう。
オレンジ色の子供はわたしに敵意と警戒心を緩めることなどなかったけれど、どうにか帰ってしまうことだけは止めた。相変わらず雨は強くなっていたし、なによりこんな場所で宇宙人なんていう奇跡的な存在に出会えたチャンスを逃してなるものかと思ったからだ。
「ね、君の名前は?」
「なんで教えてやんなきゃなんないのサ」
「えーと、別にいらないんだけどね。呼ぶのに不便だから。なんでもいいならオレンジ君て呼ぶけれど」
「…………トロロ」
よほど嫌だったのか、眉間に皴を寄せてトロロは答えた。
わたしは笑顔になって自分の名前を名乗った。彼が覚えてくれたかはわからない。
自己紹介も終わったので、わたしは手に持ったタオルでトロロの体を拭いてやった。当然彼は嫌がったし反抗されたけれど濡れていて平気なわけがない。いくらカエルに似ていると言っても濡れているままで歩き回られてはお婆ちゃんの迷惑にもなってしまう。
「離せヨっ!」
「だぁめ。ちゃんと拭き終ってから遊んでよね」
「こ、子ども扱いするなっ!!」
小さくて可愛らしいミカンみたいな握りこぶしを振りかざしながら、トロロがわめく。その様子が微笑ましくて、わたしはタオルに込めた力を弱めた。伝わる熱は少しだけ高くて温かく、抵抗される力はわたしのものと大差ない。それでも逃げてしまわない彼に安堵して、わたしはタオルを取り払った。
丸い目がわたしを捉える。少しだけ、息を呑むような間が開いた。
「ねぇ、わたし変なことを言っているのかもしれないけれど」
ふわふわのタオルに包まったトロロが疑うようにわたしを見ている。わたしは極上の笑顔で彼に微笑んで、ゆっくりと言葉を選んで口にした。
「わたしと、友達になってくれないかな」
彼の瞳がわずかに大きくなる。わたしは相変わらずにこにこと笑ったまま、逃げられないように添えた手に力を込めた。宇宙人である彼にこんな申し出をしたのは可笑しなことかもしれないけれど、こんなどしゃぶりの日に招きいれられた他人の家の中で起きる出来事は概ね変なことなんじゃないだろうか。いや、たぶん、そうだ。きっと、これは可笑しなことなんかじゃなくて、ここではとても普通なこと。
笑顔のままでわたしはもう一度彼を見た。愛らしい指先がわたしに向けられる。
「なに考えてんのサ」
「なにって? 今言ったとおりのことだよ」
「…………………………本気?」
今度は少しだけ蔑むような声。小さいくせに何でも知ってるような、可愛げのない声だったけれどわたしは笑顔を崩さなかった。たぶんそんなことよりも彼の反応が嬉しかったからだと思う。大きく頷いて肯定を示すと、やれやれと肩をすくめるような仕草のあとで彼はため息を零した。
「………変なヤツ」
雨音でかき消されてしまいそうな小さな声で彼はそう答えた。
わたしは天気などお構いなしの笑顔を彼に向ける。
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