「それでサ、その嫌なヤツが」
雨脚は弱くなることはなく、それと比例するようにわたしたちの会話も途切れることはない。けれど最初は渋っていたトロロが弁舌なので、わたしはもっぱら聞き役に徹していた。雨の音と小さな侵略者とちゃぶ台。座布団に座る彼は、何時間見ていても飽きない。
先ほどお婆ちゃんが淹れてくれたお茶をいただきながら(お婆ちゃんは違う部屋に行ってしまった)彼の話に身を任せる。今は彼がここにいる理由だという「黄色い嫌なヤツ」のお話の真っ最中だ。
「自分が一番頭いーみたいな顔してんだよネ。マジむかつく。あいつきっと友達少ないヨ」
唇をまげてそっぽを向く彼は年相応に可愛らしかった。言いたがらないけれど、トロロはその「黄色い嫌なヤツ」に負けたことがあるらしい。話ぶりからするとコテンパンに、完膚なきまでに敗北したのだろう。少しも自分を褒めるところがないって顔をして罰が悪そうにするものだから、わたしはそれ以上聞かなかった。
「その嫌いな人を、監視するのがトロロのお仕事なの?」
「違うヨ。それはあくまでもオマケなの。上の連中がアイツラの動向が気になるからって、ボクたちを監視役にされてるダケ。定期的に侵略率を査定して、報告したら終わりなんだよネ。まったく、そんなの下っ端にやらせとけばいいのにサ」
うんざりすると零して、トロロはまた頭を抱えるような仕草をした。こういう、変に大人びたところが彼と話していると垣間見える。難しい単語で仕事の話をしたり、作戦の効率がどうのと言う時、仲間の悪口もそうだけれど彼は仕事をちゃんと仕事と割り切っている。だから、辛らつな表現で自分の待遇や仲間のことも口にできるのだろう。そうでなければ、この少年がこんなふうに何かを置き去りにしてしまえるわけがない。
「ねぇ、トロロ。海って行ったことある?」
「ウミ? ……………あぁ、地表部分の80%を占める水ネ」
「うん、そう。入ったことはある?」
「ないヨ。……………それがどうかした?」
「よかった。あのね、一緒に行かない?」
自然に誘ったつもりだったのだけれど、トロロが目を丸くして「はぁ?」と心底信じられないという顔をするからわたしは赤面してしまう。男の子を自分から、それも海になんて誘ったのは初めてだった。
「あのネェ、。ボクは侵略者だって言ったダロ」
「うん。でも、侵略者と一緒に海に行っちゃいけないって法律はないでしょ」
「そりゃそうだケド。…………それって何が楽しいのさ」
行く意味がわからないと彼がはっきり言った。わたしは意味を問われることになるとは思わなかったので、ちょっと首を傾げる。
だって今は夏だ。光に彩られた眩しい季節。蝉の鳴き声がこだまして、遊びまわって昼寝して、アイスを買いに行ったらあたりが出たり、縁側で花火をやって綺麗だなって思うそんな季節だから。ふと彼と一緒にそれをしたら楽しいかもしれないと思った。彼にはもっと遊んだり自分を自由にすることを学んでほしかった。
「トロロと行けたら、楽しいかもって思ったの」
「………ふぅん」
「えと、ダメ、かな?」
もはやダメもとだった。トロロは疑うような視線で見て、しばらく考えて込む。会話が途切れて雨の音しかしなくなった。止むことのない雨が、動機が激しくなっている心臓を笑うみたいに音を立てている。ちょっと目を瞑って、息を吸って吐いた。待たされる時間て酷だと思う。
彼は見かけは子供だし、感じる全てが幼いけれど頭はいいから断るかもしれない。たったひと時出会っただけの侵略しなければならない星に住む、原始的な文明の女のことなど歯牙にもかけないに決まってる。待たされる間に募った不安はわたしを押しつぶした。怖い、と思う。何がと聞かれたらきっと「彼と別れることが」と答えてしまうに違いない。だってこの雨が止んだら離れなければいけない。
ゆっくりと目を開く。トロロは相変わらずこちらを見ていた。彼の唇が動き出し、わたしへの答えがつむがれようとしたとき、光が消えて闇に包まれた。
同時に、ものすごい雷の音。地上に隕石でのぶつかったじゃないかってくらい、腹の底に響く重低音だった。近くの家から悲鳴と、子供の泣く声、それを諭す大人の声が聞こえた。驚くことではない、とわたしは必死に自分に言い聞かせた。こんな雷雨は夏の風物詩だ。雷が落ちれば停電になるし、それだってすぐに復旧する。こんなときはおとなしく部屋にこもっていれば問題ない。
けれどここは自分の部屋ではなかったから、わたしは突然のことに少しばかりパニック状態に陥っていた。視覚を奪われたわたしには、嗅いだこともない匂いと知らない雰囲気が恐ろしくて仕方なかった。傍にいるトロロの名前を呼ぼうとして、喉が張り付いていて声が出せない。泣きそうなわたしに、更に強まった雨にも負けない声が届く。
「」
その優しい声は、わたしの心臓を宥めて正気に戻した。なんとか息をして、喉のはりつきをなくす。途端に生き返ったような解放感を覚えて、わたしは安堵した。
「、ボクはここにいる。大丈夫?」
「う、うん」
「停電ダネ。まったく、原始的なこの星らしいヨ」
わたしは一度目を瞑って、十数えてからゆっくりと開いた。すると自然に目が闇に慣れる。彼の輪郭が、ぼんやりと浮かび上がった。手探りで彼に近寄って、隣に座ったら「怖いノ?」と聞かれた。からかう気配がなかったからわたしは頷いて、「雷じゃなくて、暗いのが」と言い訳になっていない言い訳をした。嘘ではなかった。雷よりも停電のほうに自分は怯えている。トロロがうっすらと笑う気配がして、こちらに彼の手が伸びた。迷うことなく握られた手が、温かい。
「大丈夫だヨ。怖くないカラ」
「……………トロロは、強いね」
「当たり前でショ。これでも軍人ダヨ?」
おどけたように笑うから、わたしも知らず微笑んだ。彼が笑っただけで、恐怖が薄らぐ。心に余裕が生まれて、わたしも彼の手を握り返した。
お礼を言おうと口を開こうとすると、ちかちかと蛍光灯が明滅し始めた。彼が「ほら」と言うと、それが合図みたいにぱっと闇が消えて光が部屋中に溢れる。
「ほら、大丈夫だったでショ?」
「う、うん。トロロ、ありが」
「ここに居たのか。トロロ新兵」
わたしのお礼の言葉をさえぎって、低い声が突然聞こえた。
わたしとトロロが振り返る。視線が、その先にいる人物に集中した。わたしは一瞬で紫の彼がトロロの仲間だと理解する。けれどトロロは、まるで苦虫でも噛み潰したように眉間に皴を寄せていた。
紫の、金の目をした彼が手にもったものをこちらに向ける。
「まさか、捕まっているとはな」
にぶく銀色に光るそれが、銃だと認識する前にわたしは撃たれた。撃たれた音はしなかったけれど、たぶんこの衝撃はそれのせいだ。ゆっくりと倒れる隣で、トロロが何か言っている。けれど瞳をあけていられない。音が遠くなっていく。畳の感触がやけに硬く感じた。
雨は、たぶんまだ降っている。
|