連れて行かれた先は他の部屋と変わらなかったけれど、少し寒い気がした。冷たいタイルがむき出しになった床に座っていたトロロは、扉が開いてわたしが姿をあらわすと一瞬信じられないという顔をした。わたしはその驚きに余裕を持って微笑んで、彼に走りよる。それから座っていた彼をひょいと抱き上げて、思い切り抱きしめた。ぎゅうぎゅう。音がするくらいきつく抱きしめると、くぐもった声が助けを求めてくる。
「よかった! また会えたね。トロロ!」
「ぷはっ、。なんでこんなところにいるんだヨ!」
「なんでって、物分りのいいわたしに免じてトロロの隊長が連れてきてくれたのよ。どう、すごい?」
「隊長が? そんなはず……………」
「うん。そうだね。だからそのまま聞いて。トロロ」
抱きしめているせいで、トロロの顔は見えない。彼の頭を抱えるようにして耳元で声を落とすわたしには、考えがあった。ダメかもしれないけれど、やってみる価値はある。
「あのね、本当は記憶を消してもいいって約束で、会いに来たの」
「なにそれバカじゃないノ! はボクとの記憶が消えてもいいって言うのカヨ!」
「嫌だよ。すごく、嫌。でもトロロがまずい立場にたつのはもっと嫌だ」
紫のカエルの言っていることは、つまりそういうことだ。彼がまずい立場に置かれれば、対処をしなければならない。処罰というのは、一般人のわたしには想像がつかないけれど階級性の軍隊の中では不利になる気がした。だから、わたしは受け入れた。
トロロが、とんとわたしの肩を叩いた。
「なんでダヨ! アイツラだって友達くらいいるじゃないカ! なんでボクだけ!」
アイツラ、というのは監視しなければいけない同胞だろう。
やっぱり、とわたしは笑った。
「ねぇトロロ。それなんだけどさ、『黄色い嫌なヤツ』ってこういうときどうするのかな?」
「え?」
「友達が『許されている』わけじゃないでしょう? その人たちだってリスクは同じはず。じゃあ、なぜ記憶を繋いでいられたの? どうしてその人たちと一緒にいられたの」
「それは……………」
不思議だった。紫のカエルが言ったように地球人に誑かされている恐れがあるのなら、その排除をなぜしないのか。答えは圧倒的な強さにより攻撃が不可能なのか、巧妙に情報が操作されているか、どちらかだ。彼が語った『黄色い嫌なヤツ』は話に聞く限り相当陰険で頭がいい。ならば、そんな非常事態においても冷静に見極めて対処しているに違いない。
トロロがそれを知っているかどうかはわからなかった。もちろん『嫌なヤツ』がやったことなんてしたくないと断られるかもしれない。でも、今考えられるのはそれくらいだ。
「何か、ない?」
「………………」
記憶をなくさないための、方法。
この会話さえも盗聴されているのだろう。だから抱きしめあうようにして会話をしている。ただ、この状態も長く続けば怪しまれる恐れがでてくる。
トロロが手探りでわたしの服をきゅっと握った。
「ある、カモ」
「本当に?」
「でも、出来るかわかんないヨ。アイツは出来たけど、ボクは………」
心細そうな、声。そっと腕を緩めて、わたしは彼の顔を見た。
たぶん数時間ぶりの再会だ。わたしは眠らされていたからわからないけれど、うっすらと彼の頬に涙のあとが見えた。よく見れば手にも足にもひっかいたような傷や、赤く腫れている部分がある。扉を叩いたのかそれとも体当たりでもしたのだろうか。
「怪我、してるね」
「べ、別にこれは」
「いいんだよ。トロロ。考えてみれば、可笑しな話じゃない? 古い友人てわけじゃないんだもの。たった数時間しか、わたし達は共有していない。わたしの記憶が消されても、何にもトロロは困らないよ。こんな怪我するくらいなら、大人しく隊長の言うこと聞いたほうが」
「それ本気で言ってるノ?」
硬い、声がした。さっきまで震えていた声ではない。強くて刺すような、怒っている声だ。
わたしは困ったように微笑んで、彼を着地させた。それから自分も膝をついて床に座り込む。目線が一緒になる。
そうして、ゆっくりと頭を振った。言ったことは本気だった。それが彼に一番いいんじゃないかと思った。わたしは彼よりも大人だ。大人だから、諦めることも上手にできるような気がした。でも、本当はものすごく嫌だった。
トロロが呆れたようにため息をついて、ぽんぽんと頭を撫でてくれる。
「こんなところで嘘つくなヨ」
「うん、ごめん」
「ダメだね。許してほしかったら、大丈夫って言ってヨ」
わたしは首を傾げた。穏やかに笑うトロロからは、もう弱々しさは感じない。
あの停電のときのように手をとって、トロロは呟く。
「大丈夫ってに言ってもらえれば、海でもなんでも叶えてやれる気がするんダヨ」
「……………トロロ」
「それにボク天才だしネ! アイツに出来てボクに出来ないわけないシ!!」
にかっと歯を見せて笑う彼は、わたしの好きな年相応の顔をしていた。わたしは泣きそうになりながら笑って、彼に握られた手を握り返した。あの停電のとき、本当はトロロも怖かったのかもしれない。でもあんまりわたしが怖がるものだから、勇気を振り絞ってくれたのだ。平気なふりをして、守ってくれた。
「大丈夫。トロロに出来ないことなんてないよ」
だからわたしも平気なふりをして、顔全体で笑った。出来るだけ優しく聞こえるように、勇気を与えてあげられるように、考えてわたしは笑った。
「ありがとう」トロロの小さな謝罪は、きっとわたしにしか聞こえなかった。それと同時に扉が開いたからだ。わたしは振り返って、トロロと一緒に紫の上司を迎えた。
「時間だ」
言葉は短く、わたしに銃口が向けられた。けれど前のような恐怖はない。大丈夫、頭の中で彼の声がリフレインする。握った手に力を込める。信じている。
軽い音がして、わたしはまたくらりと眩暈に襲われた。衝撃はない。ただ、緩く眠りに陥るような感覚。倒れるとき、わたしを支える手があるような気がした。たぶん、トロロだと思う。わたしはありがとうと心で思って、離れたがっている意識を握る手綱を弱めた。眠りに落ちる瞬間に、大切な人の声を聞いた。「大丈夫」空耳では、ない。
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