今日もよく晴れている。上空に高々と峰を連ねる入道雲を見上げて思った。夏の盛りを迎えたこの時期は、外出するのが最も億劫になる。外にいるだけでじんわりと汗が出てくるし、紫外線で常に肌がぴりぴりしてくる。帽子でも被ればいくらか違うのかもしれないけれど、その行為すらも面倒だと思えてやめた。これでは日焼けしても文句は言えない。
コンクリートは熱をじりじりと溜めているから、足元から熱くなっていく。裸足で歩けば火傷してしまうんじゃないかと思うほど、それは熱されたフライパンのようにも見えた。汗が頬を伝い、やがて地面に落ちる。その瞬間に、じゅっと音がした。


「こんにちは〜」


住宅街の一角、古い駄菓子屋の前であいさつをした。子どもたちを迎えるために開け放された引き戸から顔を出すと、見慣れたお婆ちゃんが土間に座っているのが目に入った。外とは違い、玄関のたたきはひんやりと冷たい。そこに足を下ろして、お婆ちゃんはわたしの姿を確認すると穏やかな顔を一層緩めた。


「いらっしゃい、お嬢ちゃん」
「外はあっついですよ。スイカ買ってきたから食べましょー」


笑って、手に持った袋からスイカを取り出して見せた。お婆ちゃんは立派だねぇと言った後に包丁を取りに台所に引っ込んでいく。わたしは所狭しと並んだお菓子やおもちゃ類を眺めながら、先ほどまでお婆ちゃんが座っていた場所に座った。室内のひんやりとした空気が馴染んでくる。サンダルをぱたぱたとさせて、そこから少しだけ奥の部屋に視線を移した。なんとなく、あの居間が懐かしい気がして、自然と顔が歪む。けれどどんな顔をしていいかはわからなかった。




この駄菓子屋を尋ねるようになったのは、ちょうど一年前からだった。急な夕立にあい、叩きつけるような雨を逃れるためにこの駄菓子屋の軒先に避難した。そのときお婆ちゃんが中に引き込んでくれたのだ。雷が近くで鳴っていたから、本当に助かった。長い雨だったように思う。雷がひっきりなしに鳴っていたし、雨脚も弱まる気配を見せなかった。お婆ちゃんは別室にいたので、わたしは一人居間に残されながら、止まない雨を見ていた。知らない人の家にいる自分を不思議に思い、興奮してもいた。そうしている内に停電が起きた。驚いたことは覚えている。けれどその先の事実がひどくおぼろげだ。
そうして眠った記憶はなかったのに、なぜかわたしはお婆ちゃんに起こされて目が覚めた。居間で、身を縮めるようにして眠っていたらしい。お婆ちゃんが悲しい夢でも見たんだねと声をかけて、涙のあとがくっきりと頬に残っていることを知った。
それから、この駄菓子屋にはちょくちょく遊びにくるようになった。お婆ちゃんは一人暮らしで足も悪かったから、仕事には困らなかった。わたしがその家の生活の一部になるには時間はかからず、秋が訪れ冬を越したあともこうやって通っている。


「あー!姉ちゃんだー!」


店を手伝うこともあったから、近所の子どもたちにも慣れた。夏の暑さと眩しさに当てられた少年たちは真っ黒に日焼けしている。みんな片手にビニールの袋を持っているから、プール帰りのようだった。
ひとしきり遊び終わったころに、お婆ちゃんが切ったスイカを持ってきてくれた。包丁を取りにいったのだけれど、子供たちが来ていたので奥で切ってきたのだ。スイカを頬張りながら笑う子どもたちを見ていると、ふいに懐かしいような悲しいような気分になった。
あぁ、まただ。油断すると、なぜか切なくなる。心のうちで、昔を懐かしむような、郷愁に暮れていくような感覚に陥ってしまう。今まで暖められていた気分が急にしおしおとしぼんでいく。上手く笑っていられなくなって、わけもなく焦ってしまう。
なぜか、なんてことは考えなかった。子どものころの記憶を蘇らせるように困難なことだと、なぜか直感でわかってしまっていた。






子どもたちが遊び終わって、あたりが夕闇に暮れ始める。そろそろ自分もお暇しようかと思ったとき、突然雷が落ちた。鳴った、なんて生易しいものではない。すぐ隣で落ちた音だった。雨が遅れて降り始めて、強くなるなと思った瞬間には大粒の雫に変わっていた。
とりあえずお婆ちゃんに大丈夫かと声をかけて、家中の窓を閉めてまわった。お婆ちゃん一人では閉めきる前に家が水浸しになってしまう。鳴り続ける雷に、去年のことを思い出した。そういえば、こんなふうに突然降りだしたのだ。家にいれてもらって、それから服を着替えさせてもらって、お茶をご馳走になった。停電の後で眠ってしまうなんて、あまりにも神経が太いと思うけれど。
窓を閉め終わって、相変わらず玄関を眺めながら座るお婆ちゃんに声をかける。


「終わりましたよ。中、入りませんか?」
「いんや、ここにいないと雨に困った子を中に入れてあげられないからねぇ」


どうやら、軒先に避難する若者はわたしだけではないらしい。そう思うとふと嬉しいようなこそばゆいような優しい気分になった。並んで座りながら、わたしは雨の音に耳を澄ませた。ゆるゆるとお婆ちゃんと会話をする。


「そういえば、お嬢ちゃんが来たのもこんな日だったねぇ」
「うん。あのときはお世話になりました。でも、こうやってお婆ちゃんともお友達になれたし、いい思い出だよ」
「そうだねぇ。こんな年寄りのお相手をしてくれるなんて、今時いい娘さんだよ。でもねぇ」


一拍おいて、ふとお婆ちゃんがこちらを向いた。


「お嬢ちゃんは少ぅし、寂しそうだ」


声と同時に伸ばされる腕が、わたしの前髪を優しくなでる。体温が伝わって、ほんのりと心に光が灯る。息が上手く吸えなくて、慎重に深呼吸した。


「うん。でもここにいれば安心するから」


お婆ちゃんに隠し事は出来ない。年を重ねた人の力は、わたしなど到底及ばない。
お婆ちゃんはとても細い瞳の向こうで、わたしの心をちゃんと捕らえているんだろう。小さい子を見るたびに辛そうに笑って、嬉しそうに眉を下げる奇妙なわたしを全部見ている。
だから大丈夫だと時々わたしは答える。お婆ちゃんとの日々が楽しいのは、本当のことだ。その中に不満を持つなんて贅沢だし、失礼だと思った。
雨が一層強く降る。雨戸が震えて、がたがたと音をたてた。


「あ、雨戸、大丈夫か見てきますね」


そこにいては泣いてしまいそうだったから、急いでわたしは居間に引っ込んだ。雨戸が壊れているかどうかなど、音の具合からわかる。だからお婆ちゃんはわたしが引っ込んだ理由もわかっているだろう。
冷たい廊下に立って、泣くのを堪えた。普段は極力気付かないようにしているけれど、心配してもらうとその傷は大きく広がっていく。気付けと促し、問題を解決しろと命令される。けれど、こればかりはわたしにはどうしようもない。



そのときだった。今日一番の雷が、わたしの耳を貫いて轟音をとどろかした。驚く間もなく、光が消えて闇が生まれる。突然あたりが見えなくなって、わたしはとりあえず座り込んだ。動くと危ないとわかっていたし、暗闇を上手に歩けるとも思わなかったからだ。


「停電、か」


声を出す。でなければ、闇に押しつぶされそうだった。怖いと思って、必死に誰かを呼ぶ自分を見つけた。誰だろう。そういえば、わたしは去年も停電にあっている。あのときもこんなに心細かっただろうか。覚えがない。
ひんやりとする廊下に手をついて、周りにあるものを調べた。徐々にでも動かなければいけないと思ったし、お婆ちゃんも心配だ。けれど、その手が誰かに捕まえられた。
すべらかな感触だった。皺だらけのお婆ちゃんの手ではない。恐怖がつのって、悲鳴が喉元までせりあがる。


「大丈夫ダヨ」


けれど悲鳴は声にならなかった。とても近くで、ひどく落ち着いた声がしたからだ。
知らない声だった。駄菓子屋で知り合った子どもたちの、どれとも違う声。わたしは悲鳴をあげるべきだと思う一方で、それとは違う温かな気持ちが湧き上がるのを感じていた。この気持ちの名前はわからない。哀愁とも郷愁とも、懐かしさとも違っている。ただただ嬉しくて、知らない人なのに抱きしめたくなる。わたしだけが感情に取り残されて奇妙だ。
何も言うことができないでいると、握られた手が力を強めた。


「言っておくケド、遅れたのはボクのせいじゃないからネ」


ばつが悪そうな声がして、たぶん彼は暗闇の先でそっぽを向いたのだろうと思った。
彼というのは、予想だ。わたしの直感が手を握る人は男だと告げている。
息の詰まるような嬉しさがのせいで、声がでない。苦しそうに息を吸う。まるで病人のようだ。


「みんなを納得させるのに時間が掛かったんダヨ。装置自体は簡単だったシ」
「………………」
「まぁ、今回はあの嫌なヤツに感謝してやってもいいけどネ。記憶のバックアップなんて、こんなズルイやり方はボク嫌いダシ」
「………………」
「ププっ。ねぇ、


わけのわからないことを並べ立てる彼は、わたしの名前を呼んだ。わたしは彼の名前なんて知らない。だから呼べない。それがとても歯がゆくてつらい。なぜかはもちろんわからない。


「ボク、帰ってきたんだヨ。こういうとき、地球では言う言葉があるんダロ?」


彼の左手に力が込められる。握られた手が更に熱くなっていく。神経を集中させると、震えているのが伝わってきた。彼はわたしに何を求めているんだろう。帰ってきた?それはなんのこと。知り合いではない。会ったことなどない。話をしたこともなければ、視線をあわせたことだってない。顔を見たって、ぴんとこない気がする。
人違いだともうとっくに結論は出ているのに、わたしの唇は動かなかった。何かを待っているようで、考えあぐねているような、今を逃してはいけないと体全体が拒否しているようにも思えた。
あぁ、顔が見たい。そう思ったとき、闇が消えて光に包まれた。
眩しさが視界を覆って、反射的に瞳を閉じた。恐る恐る開けてみる。期待はしていなかった。けれど恐怖もなかった。わたしの目が、彼を捕らえる。


「あ」


第一声は間抜けそのもの。口を半開きにしながら、わたしは彼を見た。瞳に写し、脳で理解し、意識の奥で鏡の割れるような衝撃を受ける。受け止められない衝動が駆け上って、わたしの内側が混乱し始める。欠けた部分が一気に満たされて、水の中に放り出されたようだった。安堵する。怖くなる。それでも、やっぱり嬉しくなる。
わたしは精一杯、笑った。


「おかえりなさい……………トロロ」


ただいま、と彼は照れたように笑った。
記憶が、春におこる鉄砲水のように激しくわたしを巻き込んで満たしていく。握った手を引いて、わたしは彼と別れたときと同じように抱きすくめた。柔らかで温かい、気持ちのいい感触。くぐもった抗議の声が懐かしくて、わたしは聞こえていないふりをした。
雨は、まだ降り続いている。




















(07.08.30)