「なんで、アイツなのサ」
昼下がりなのに、ここはとても薄暗い。絨毯のひかれた部屋は、その色どおりに明るいのに、この部屋にはうっすらと膜のような闇が広がっているように思えた。そのままぺたりと座り込んでいると、どこまでも沈んでいってしまいそうなほどに。
わたしは用意したカップに紅茶を注ぎながら、パソコンを開けたまま同じように座り込んでいるトロロを見る。いつのまにか、そこが彼の定位置になってしまっていた場所に。
「なぜと問うのは、愚問だと思うわ」
「?」
彼の問いは、まったく的外れのものだったのだけれど、彼は心底不思議そうにわたしを見た。たぶん彼はまだその経験がないのだと思い、わたしはうっすらと微笑む。そこにある、まだ白い心に目を細めるようにして。
「なぜなら、それは形がなく、存在する理由も曖昧だから」
「…………なに、ソレ」
「いいのよ。トロロはまだわからなくていい。これは、誰かを愛して愛されて、そしてその愛を失わなければわからないことなの」
トロロは反発するように顔をしかめて、何かを言いたそうに唇を開く。けれど声は言葉にならず、また「どうしてサ」と同じ問いを繰り返した。
わたしはその様子にいつも堪らないくらいの愛情を覚えるのだけれど、それは彼がまだ無垢な愛情を持ち合わせているからであることを知っていた。わたしのように歪んではいない愛情に惹かれている。
「もうアイツのことなんて忘れなヨ。忘れたほうが、ゼッタイいい」
「トロロ」
「あんな嫌なヤツ…………に思われてる価値なんてないんダ」
価値。わたしはその言葉の意味にきょとんとして、次にぞっとした。
トロロにとって、わたしが価値のあるものだという事実が恐ろしかった。彼はわたしに優しい。その優しさに、他意がないと言えば嘘になるのだろう。トロロはあんなやつよりも勇敢でまっすぐな愛情を持っている。まっすぐで淀みがない、それでいてわたしにはない愛情を。
「あんなヤツの、どこがよかったのさ」
そして彼の愛情は、まだどうすれば傷つくのかさえ知らない。
わたしは彼の問いを考えるふりをした。わたしが彼を愛した理由なんて、彼は知らなくてよかった。どちらも何かを仕掛けたということはなく、いつのまにか惹きつけられて傍にいたのだ。愛情を束縛するものなどなく、これからもそんなものはないだろうと思っていた。果てのない、愛情。
そんなふうに愛したことをトロロに告げれば、彼の傷になることは間違いがない。それなのに、彼は聞くのだ。わたしはそんなことをしたくなかったので、答えはしない。
「どうだろう。あんまり昔の話だから」
「でも忘れてないんダロ」
「そうね。どこかに刻まれてしまったのかもしれない」
トロロがまったく引き下がらないので、わたしは渋々――彼が傷つかない程度の真実を――答えた。
トロロは痛みを始めて覚えた子どものような顔をする。
「なんでサ。はもう愛してないんダロ? 失ったって言ったじゃないか。なのに、どうして、終わろうとしないノ」
終わる。終わるというのは、何に対してだろう。けれど、トロロはやはり賢い子だ。
わたしは曖昧に微笑んで、彼の問いと自分の答えをうやむやにする。ふかふかの絨毯に沈み込んでいっているのが、わかった。
「ガキで遊ぶのは、やめろよ」
トロロの帰った部屋で、まるで冗談のような声が響いた。わたしが冗談だと思ったのは、彼が自分からわたしに連絡をとってきたからだ。意地っ張りな彼が、自分から何かを求めるのはひどく困難なことを知っていた。
振り返れば、わたしのパソコンが明滅していた。そしてぱっと明るくなった画面に、クルルが映る。かつて愛した、そのままの表情で。
「遊んでなんか、ない。あなたこそ覗き見なんていい趣味ね。クルル」
「クーックックッ」
「誤魔化してしまうのも相変わらず」
わたしは笑って、画面の前に腰を下ろした。ずっと顔を見ていなかった彼は、けれどどこか変わったところがあるということもない。地球から帰ってきたという報告は聞いていなかったから、きっと彼はしつらえた居心地のいいラボから連絡を寄越しているのだろう。
いったい、何のために? もしかして、トロロのためだとでもいうのだろうか。
「後輩が心配? 悪女に騙されているんじゃないかって」
「悪女って、自分で言うなよ」
「自覚はあるのよ。ちゃんと告白を断らないから、彼も終れないんだって」
トロロはいつも心配と愛情を交互に分け与えてくれる。それを受け取り、満たされるわたしは彼に見返りを与えたことなどなかった。見返りを要求するすべも、彼は持たないほどまっすぐな愛情を持っていたのだ。
「だったら、あなたが手放して」
わたしははっきりと、声に出す。クルルの笑いがぴたりと止んだ。あぁ、あの日もこんなふうに始めたのだ。わたしは思い出す。
「あなたが手放してくれないと駄目だってこと、わかってるでしょう? あの日、あなたは何も答えてくれなかった」
愛情に果てなどなかったのだけれど、わたし達の生活は終わりを迎えるべきときが来た。長いこと見ないようにしてきたもろもろをとうとう抱えきれなくなったとき、わたし達は決断しなくてはいけなかったのだ。
それなのに、彼は答えてくれなかった。別れるべきなのだと言ったわたしのことを、誰より理解してくれていたはずなのに。
愛はどちらか一方がそうだと認めさせるまで二人の間に漂って形を成さぬものであるのだから、それを一方的に認めて離れろと命令することはできない。トロロへの答えはわたしと彼のものだ。しかしクルルとわたしの間に漂った確かな愛もまた、一方的に絶つことはできない。始めたときと同じように二人一緒に、手を離さなければいけなかった。
「あなたが本当の意味で手放してないことを、わたしが知らないとでも思った?」
「…………クッ。」
「言い訳はいらない。欲しいのは一言だけ」
きっぱりと言った声は、けれど冷たくなんてない。
わたしとクルルの間にある愛は、すでに物言わぬ躯になってしまっている。けれどそこに確かにあり続ける限り、わたしとクルルはそこから抜け出せないのだ。
「」
クルルは長い間わたしを見つめたあと、ようやく皮肉でも誤魔化すためでもない笑みを浮かべた。それは懐かしくもどかしい、愛が生きてきたころの彼の笑みだ。
唇が、わたしのための言葉をつむぐことが何よりも嬉しい。
「。オレはお前を愛してた」
まったく彼らしい別れの言葉だった。彼は愛情を傷つけることなく、埋葬してしまった。その体を焼くことなく、バラバラに破壊することなく、ましてやなかったことになどせずに、彼は上手に愛情を葬る。わたしは彼との間にあった結びつきを思って少しだけ別れが惜しくなったのだけれど、それをしてはまた同じことの繰り返しなので、何も言わなかった。たぶん、彼はわたしが何かを言いかけたことも何を言いたかったかということも知っていると思う。
わたしは精一杯微笑んだ。微笑んで、それで全部終わりにするつもりで。
「クルル、ありがと―――――」
「じゃ、はもうボクのものダネ」
背後から、腕と声が同時にわたしを襲った。わたしは何が起きたのかわからずに、ただ伸びてきた腕がわたしを抱きしめる強さに目を白黒させる。
画面の中で、クルルがその侵入者に向かって顔を歪めた。
「ガキか。不法侵入なんて、いい趣味だねぇ」
「フン。お前に言われたくないシ」
トロロの幼い声が、クルルの低い声を遮る。わたしはただただびっくりして、動けずに固まった。彼は確かに帰ったはずなのに。
「事の次第を聞き耳立ててたってわけか。…………必死だねぇ。だが、ひとつだけ言っておくぜェ」
ぎゅうとわたしを抱きしめる腕が強さを増した。トロロが緊張しているのだと、分かった。
クルルが笑う。嫌味たらしく、まったく負けているものなどないという余裕の笑みだった。
「ソイツ泣かしやがったら、今度こそ再起不能になるまで叩きのめしてやるからそう思いやがれ」
ブチ。
クルルが綺麗に言い終わったと同時に、トロロの指が伸びてパソコンの電源を落とした。
わたしは彼がどんな顔をしているのか、よくわからなくて振り向けない。トロロもわたしがどんな顔をしているか、確かめられないでいるようだった。わたし達はまだ何も初めてはいない。はじめられるのか、それさえもわからない。
後ろから回される腕だけが、わたしたちの体温を共有していた。
「とりあえず」
腕に力を込めて、その額をわたしの背中にこすりつけ、トロロは搾り出すように言った。
「がまだここに居てくれて、よかった」
トロロのまっすぐな愛情が、わたしにまっすぐ向けられる。わたしはその純粋さにいささかの違和感を覚えつつ(なにせ、わたしはあのクルルと付き合っていた女なのだから)その腕にそっと自分の手を乗せた。
彼が愛を失った先にある、愛情の屍を見ることにならないようにと、本気で祈りながら。
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