おまじないをしてあげよう、
もう独りで怖がらなくても済むように
「少なくともあなたなんか必要じゃない。大きなお世話よ」 強気に言ってみたはずなのに、わたしは言ったすぐあとになって後悔をした。まるで健気な女の強がりのように侘しく聞こえたからだ。頭の中で言ってやろうと思っていたときには生気を保ってそれなりの爪や牙を持っていたはずの言葉だったのに、口から出た瞬間にいっきに弱々しくなってしまった。しゅるしゅると縮む風船のように足元にくたりと落ちてしまった発言を、わたしは呆然と見つめる。 「…………そウか」 それでもこの世界で最も弱々しい風船のどこかしらについた爪か牙か何かが、彼を傷つけたのがわかった。わたしと面と向かい合った彼は、いつもの彼らしくもなく神妙な顔つきになって俯いた。墜落した言葉たちを見つめられているようで、わたしはそわそわする。ゾルルは、ひどく疲れた顔をして仏頂面のまま手近にあったソファに腰を下ろした。 なぜこんな話をしているかなんて、わからない。わからないのはどうして彼がそんなことを聞いてくれているか、ということであって、わたし達の関係性についてもまったくただしくなかった。 大体、こんな事態になったのは一体なぜだったのだろう。 「…………こちラに………………座レ。」 悩みだした瞬間、瞳を閉じようとしたとき声が届いた。ゾルルはわたしに首だけを向けている。わたしは部屋にひとつきりしかないそのソファに、恐る恐る座った。ここはわたしの部屋であり、このソファだって自分が気に入ったから買ったものだというのに、よそよそしい音をたてて軋む。ゾルルのほうがしっくりと収まっているようにさえ見えた。 彼がこの部屋に訪れた瞬間から、この部屋はわたしの城ではなくなってしまったのだ。余所行きの顔をして、お客様を迎え入れようとしている。主の思いなど関係ないとでもいうふうに。 自分を守るのは自分しかいないと閉じこもるようになって、すでに何日が経っていたのだろう。わたしは穏やかなのに満たされない日々を過ごし、空っぽなのにひどく窮屈な思いをしてうずくまっていた。カーテンから漏れる日の光にのしかかる絶望を抱えながら、どうして人はひとりでも足りるのにこんなに虚しいのだろうと考えていた。 そんなとき、ゾルルが現れたのだ。 「…………」 触れてくるわけでもなく、一人暮らし用のラブソファのくせに20センチは離れてわたし達は座っている。どちらも前を向いていたので、写真でもとっているような格好だった。正面から見れば、シンメトリーにでもなっているんじゃないだろうか。 ゾルルは優しくするにしても不器用で、慰めるにしては口下手な人のようだった。以前からの印象そのままと言ってもいい。大して話をしたことなんてないけれど、彼は寡黙な人だった。 そんな人がいきなり部屋に現れ、かつ突拍子もないことを言い始めたとすればどうしたらいいのだろう。 『迎えニ、来た』 『え?』 『とにかク、ここカら…………出ロ』 『ちょっと待って、一体なんだって言うの! 窓まで壊して!』 突然部屋に現れた彼はもちろん招き入れた覚えなどなく、そうであれば侵入経路など決まってくる。彼はベランダの窓を豪快に割って、堂々と不法侵入を果たしていたのだ。ついで当たり前のように手を取るので抵抗したあのときのわたしはいくらか頭が回転していた。 『…………こコは…………必要、なイ』 『必要よ! ここはわたしの家なの。ここしか守ってくれないの! なんでどうしてこんなこと…………!』 『…………………じゃア』 混乱していたし、彼の話なんて聞くつもりなかった。開いた窓から新鮮な空気がどんどん押しよせて部屋の生暖かい平和が色を換えていく。部屋の隅に固まっていた薄暗い気配が、薄くなっていくようだった。 わたしは焦り、どうしたらいいかわからなくなる。ゾルルは瞳だけが生きているような、不気味な生気を纏っていた。 『じゃア…………お前ニ、は…………何が、必要…………ダ?』 あきらかに社会に出て、わたしがはずれてしまった道を歩んでいる彼の言葉が全部憎らしかった。だから、あんな言葉が口をついて出たのだ。いつも挨拶程度しかしたことのない、彼にこんな口調を使ったのは初めてだった。 少なくともあなたなんか必要じゃない。 思い出せば、自分の胸がえぐられた。心拍数が異常に跳ね上がり、どうしようもない不安が襲う。前髪を撫でる風だけが鬱陶しい。二人で座っている意味がわからないし、わかったところでどうなるんだろう。わたしはもう、外になんて出たくないのだ。 「…………」 名前を呼ばれても答える義理なんてないと思った。窓ガラスを割って不法侵入したような男とソファに並んで座っているというだけで奇跡だ。けれどこの人を跳ね除けるだけの力も、すでにわたしにはない。 ゾルルは前を向いていた顔をこちらに向けた。 「…………お前ハ必要、ナいと言ったが…………俺ハ」 わたしとは違う、生きた人の目は輝いていて眩しい。くらくらする。一言一言、大切なことを言うように重々しく紡がれる言葉がもどかしい。 「俺ニは…………オ前が……必要、ダ」 必要。わたしが必要だなんて、この人は何を言っているのだろう。わたしが引きこもって一週間になるが訪れた同僚も友人も誰もそんなこと言ってくれなかった。近しい誰もが言ってくれなかったのに、どうしてこの人がそんなことを言ってくれるのだろう。 熱くて苦しいものが涙になって溢れた。まばたきするたびに零れ落ちるものだから、わたしは嗚咽もままならない。ゾルルはおずおずと腕を伸ばして、わたしの顔に近づこうか迷っているようなそぶりをする。 「…………な、によっ」 「イや…………どうすれバ、止まル?」 睨みつけてやるとゾルルは困り果てた声を出した。どうすれば止まるかなんてわたしが聞きたい。引きこもって閉じこもって自分を守ってきたはずだったのに、わたしの欲しいものは外にあったのだ。 必要だと言って欲しかった。わたしなどいなくても進む一日を過ごすのは絶望でしかなく、扉の向こうから人の気配が消えるのは恐怖だった。 決心を決めたようにゾルルがわたしの頬に触れ、ごしごしと乱暴になでた。痛い、と苦情を言うと彼は謝ったけれど腕は引っ込めない。 「…………顔、ガ…………見たかっタ」 こすりながらそんなこと言うものだから、わたしの涙は止まらない。世界に絶望したのに彼はいとも簡単に救いあげてくれた。わたしは約束が欲しかったわけではない。ただ、わたしがこの世界の誰かにとって必要である人間だと言って欲しかったのだ。言葉にしてわたしにだけ響くように、言って欲しかった。 わたしは笑えるように努力する。いつもこの人と話すときは笑っていたはずだ。 「お隣さんがこんなに強引な人だなんて、知らなかった」 それだけ言うと今度は彼が黙り込む番だった。いつも挨拶程度しかしたことのないお隣さんは、あらぬ方向を向いたあとに小さく謝罪の言葉を呟く。その様子が小さな子どものように頼りなく見えてしまったものだから、わたしはすかすかの窓も彼の横暴さも許してしまえるかもしれないと思った。 休み続けた会社に連絡をいれよう。部屋まで来てくれた友人たちに謝って、そして絶対お礼を言おう。わたしのことを心配してくれた彼女たちを尊べなかった昔のわたしの変わりに。 それから、この隣人ともっと話してみよう。わたしから逃げないでいてくれそうな、乱暴で不器用で心底優しいこの人と一緒にいるのは心休まるに違いない。 いつのまにか頬にあてられた手はわたしの手を捕まえていた。どちらも子どもみたいだ。そばにいなければわからない。掴んでいなければ安心できない。わたしは笑った。 『おはようございます! ゾルルさん、今日もお早いんですね』 『…………あァ』 『お仕事がんばってください! あ、それと明日は燃えるゴミの日ですから』 『わカ………っタ』 『はい。いってらっしゃい!』 毎日の他愛無い会話に救われていたのは、誰でもない彼だったことをまだ彼女が知らない。 |
(09・05・29)