違わないんだと思う。
息苦しくなりそうなほど暑い店内は、ヒーターの音がやたら五月蝿かった。安っぽい合成皮のソファに座りながら、同じように安っぽいコーヒーを啜って、はそれでも努めて平静を装っている。目の前に座る友人は――彼女が認めてくれるのなら、親友と呼ばせてもらいたいと思っているくらいの友人だ――店員にコーヒーのおかわりを催促し、の答えにはちらりと視線をくれただけだった。


。あたしは、それでもがいいと言うなら仕方ないことなんだと思う」


いっぱいになった彼女のカップに、鏡みたいにが映っている。昼下がりのファミリーレストランは、がらんとしていた。友人の声はよく響いて、の鼓膜と言わず瞳と言わず、ぶつかるすべての感情を揺らしている。


「でもね、がいくらその人を引き止めたって、その人がを捨てることを、誰にも止められやしないのよ」


カップを持ち上げて、自分の言葉を一緒に飲み下す友人は、黙ったままのに一言だけ最後に謝った。
はそれでも何も言えない。彼女の言葉は何も間違ってはいない。辛らつで情がない言い方だったけれど、付き合っている人の名前も言わずに散々相談を受けてくれたのもまた彼女だった。だから、には反論する権利がない。それが正論であれば尚更に。
窓際の席を選んだせいで、白々とした光が眩しかった。











好きと愛しているの境界線はどこにあるのだろう。はたびたびそれを考える。特に彼との境界線が、いつから愛しているになってしまったのかが問題だった。そんな結果を引き起こしてしまった背景には、いったい何があったのだろうかと半ば恨みもこめて思ったりする。複雑で奇妙なあれこれを、飛び越えるには理性を取っ払ってしまう強烈な何かが必要であったはずなのだ。


「わたしは、彼を捨てたりしない」


口にしてみると、それが彼を指すものだとさえ思えなかった。もっと価値のない、ゴミ同然のものにあてるべき言葉だ。容赦のない響きにぞっとして、は両腕を抱えてしゃがみこむ。

だいじょうぶ。

耳の奥、記憶の中で彼は言う。日溜りの中に押し出されたように感じる温かな声だった。の精神はいささか浮上して、安定を取り戻そうとする。彼と付き合い始めてからいつもこんな調子だった。どこか心もとなくて、始終探し回っている。それが何なのかなんて、すでににすらわからなくなっていたというのに。


「どんな言い訳をしたって、一緒にいたいだけなのよ」


だから、友人の言葉はすべて正しいのだ。
わたしが彼を捨てることはない。この関係を手放すには、もう手遅れになるほど大きな信頼と深い愛情が根付いてしまっていた。抜き取るにはすっかり心を入れ替えなくていけないくらいに、もうの根底を掴んでいる。彼なしの日々は考えられない。彼と出会ってしまう前にはもっとたくさんのことを考えられたはずだったのに、今は堂々巡りばかりを繰り返している。


「タイムマシンが」


あったらよかった。
独り言のように呟いて、は自分の思い込みに笑い出す。自分がこの世界に対して後付けであることは知っていた。その中で自分を選んでくれた彼には感謝している。彼を選べた自分も、これ以上ないくらいに褒めてあげたい。でもだからこそこの世界を壊すには忍びなく、触れてはいけないものだと思ってもいた。愛しているということが、それすらも汚く罪のあるものだと思えてしまう。


タイムマシンがあったらなら、彼を愛する前に戻ってしまえる。
誰も傷つけず、嘘も言わず、悩むことすらせずに、ただ日常を日常と過ごせる。奇跡的な愛情を受け取らず、誰かに愛される幸福を感じることもなく、尊い記憶を共有して笑いあうこともせずに、坦々と日々に溶けてしまえる。
なんて意味のない『もしも』だろう。もうすべては遅いと言うのに。


「やっぱり、これはわたしの我侭であって、違いないんだわ」


もしここにタイムマシンがあったとしても、それにわたしは乗り込めない。
今を捨てることがどれだけの損壊かわかっている。これ以上の幸せがないことも理解している。だからこそ我侭に違いなく、友人の言葉は正しいのだ。


「―――?」


呼ばれた声に、反射的に胸が高鳴る。首をあげ、その姿を瞳に納めるまでに数秒かかった。大好きだと漏れそうになる口元を引き結ぶのに力がいった。馬鹿みたいに幸福になってしまえる安い自分が恨めしい。
ただひたすらに、彼が好きだった。


。あたしは、それでもがいいと言うなら仕方ないことなんだと思う」


まったく正しいことだ。わたしはここにいることを望んでいて、誰かに咎められても、曲げない信念を持たなくてはならない。


「でもね、がいくらその人を引き止めたって、その人がを捨てることを、誰にも止められやしないのよ」


わたしは彼にすがりつきたくなるけれど、どうにか押しとどめた。
恋愛というのは、それを始めてしまえば二人ともを同格にしてしまう。どちらかがどれくらい悪いなんてことはもう、考えるだけ無駄なのだ。
















焼けるような想いは燻るばかりで





(08.08.31)