朝、目が覚めたら物凄く気持ちが良くて久しぶりに目覚ましよりも早く起きてしまった。
ベッドから起き上がってカーテンを一気に開けると、まぶしい朝日が目に染みた。キラキラと朝露に濡れる窓枠が少しだけ綺麗だといつもと違うことを考える。お母さんが呼ぶ前に階段を下りようと思って、一応着替えも済ませて階段を下りた。トントントン、軽い足取りが自分でもおかしい。




「おはよう」




居間にいたお父さんに軽く声をかけると意外な顔をされて、短く返事が聞こえた。お母さんは台所だから、顔を洗ってから言うことにしよう。いつもなら時間がなくて水だけだけれど今日は特別に洗顔フォームを使おうと思って泡立てネットを手に取った。




「いってきます」




いつもの十倍は余裕をもって学校に行く準備を終わらせてしまったわたしはいつもの十倍も早く家をでることにした。靴を履いている背後でお母さんが「今日は雨でも降るのかしら」とあんまり心配そうな声を出すから、わたしはわざわざ玄関を開けて快晴の空を指差して笑って見せる。こんな青空のどこに不安を持つことが出来るんだろう。
天気予報だって、快晴だって保証してる。




『足踏みしてても靴は減る』
そんな言葉を以前聞いた気がする。何をやっていても時間は減るのだから、いつも有意義に生きることに全力をそそげとか多分とそういうことを言っていたんだろう。それなら断然今日のわたしは有意義だった。朝もすがすがしく起きられたし、学校には余裕で着いたから教育指導の先生の度肝を抜いてやったし、なぜだか宿題のやってあるところばかり指されてしまったからいつものように皆の前で恥じをかくこともなかった。実にいい気分だ。これをいい気分といわずになんと言おう。
快晴の空を仰いでみれば、握り締めた箒で空を飛べる気さえして起こしそうになる。あぁ、でも掃除用具だから返さなきゃいけないのか。




ちゃん。今日、うち来るでしょ?」




放課後、ウキウキした気分でいると夏美ちゃんが笑顔で聞いてきた。だからわたしも笑って、もちろん、と返事をする。




「そか。でもわたしバスケの助っ人頼まれちゃってさ〜。だから、先に家で待っててくれない?今日は冬樹が家事当番だから鍵は開いてるからさ」
「そうなの?じゃ、待たせてもらおうかな」




夏美ちゃんのお母さんは特別な仕事をしているから、彼女たちは交代で家事をしてるらしい。朝もまともに起きられないわたしとは雲泥の差だ。
夏美ちゃんは爽やかな笑顔で「じゃあ、行って来るね」と軽やかに踵を返した。彼女は常に明るい。伸びる手足にしなやかな動作、運動部でさえも目を見張る運動神経を持つ彼女は友達としてとっても自慢できる少女だ。


「可愛いからモテるのに・・・・。やっぱ積極的にアタックしなきゃ、あの鈍感さには勝てないのよね」




ま、積極的にアプローチしても駄目な場合もあるけど。




「・・・・・・え?」




そこまで思ってから、わたしはハタと手を止めた。
持ち上げようとした鞄を目の前にして、思考が止まる。おかしいと、何かが告げている。




「今、わたし・・・・・・・誰のことを考えた?」




夏美に本気でアタックをかけようなんて、命知らずな男子はこの学校にはいない。いなかったはずだ。それなのに、どうしてわたしは「積極的にアプローチしても駄目」なんて思ったのだろう。誰もしたことなんてない。記憶を手繰ってもそんな存在しない人のことをどうして考えてしまったのだろう。




「・・・・ま、いっか」




きっと、一緒に買い物に行ったときナンパしてきたヤツらのことでも思い出したに違いない。わたしは頭がよくないから、思い過ごしっていうのはよくあることだし。

鞄を引っつかんで勢いよく教室を飛び出す。なんだか、頭の中に靄がかかったようだった。










「あ、冬樹君発見!」




日向家に向かう途中で、冬樹君を発見した。彼はいつものようにまっすぐ家に向かっている。こちらに目もくれないあたりが彼らしい。もしかしたらまたオカルトなことでも考えているのだろうか。




「あ・・・れ?あの後ろにいるのって・・・・・」




冬樹君の後方十メートル、電柱の影に隠れて明らかに彼を見つめている少女がいる。青い髪、オドオドした表情、生粋のお嬢様的な雰囲気をかもし出している彼女はどうにか冬樹君に話しかけたいらしい。行こうか行くまいか、迷うようにする姿が可愛らしかった。




「何やってるんだろ。いつもみたいに一緒に帰ればいいのに・・・・」




続けて少女の名前を言おうとして、ふとわからなくなった。
あれ?彼女は誰だっけ?
そういえば冬樹君の友達なんて知らないはずだ。彼とだって、あんまり話らしい話なんてしたことはないのに、どうして図々しくもそんなことを思ってしまったのだろう。
わたしはくるりとその道を引き返して、二人に背を向けた。違う道を行こう。なんだかあの二人を見ていると目眩を起こしそうだ。
なぜだかは、やっぱりわからないけれど。







 



「お邪魔します・・・・・」




越えなくてもいい川や公園を迷ったせいで二倍は遠回りしてやっと日向家に着いたころには、もう日は暮れかかっていた。玄関を開ければ、先程も見た冬樹君が顔を出す。




「いらっしゃい。 さん、遅かったね」
「うん。なんだか途方もなく疲れたよ・・・・」




あんたのせいだよなんて言えるはずもない。というか、言っても八つ当たり以外の何ものでもないだろう。
冬樹君は笑ってどうぞとスリッパを揃えてくれた。それからまだ洗濯物を片付け終わってないから、先に部屋に行っていてほしいと付け加える。




「うん。先に行ってるね」




パタパタと足音が遠ざかる。わたしはいつものように日向家のリビングに向かった。夏美ちゃんとは仲がいいからよくこのうちに来ることがある。だからどこに何があるかぐらいは知っていたし、それを知っているから冬樹君はわたしを居間に案内することはしなかった。
けれど、リビングに向かおうとしたわたしの足はなぜか地下への階段を下りている。




「あれ?」




階段を下りているとき、なぜ気がつかなかったんだろう。わたしは全段を下りきってあまつさえ地下室の扉の前に立ちながら、そのときになってやっと自分の行為の不思議さに足を止めた。
リビングに行こうと思っていたのに、なんでわたしこんなところにいるんだろう。




さん?」
「・・・・・冬樹君」
「どうしてそんなところに?」




リビングにいないことに気付いた冬樹君が、地下の階段のところまで来てくれた。わたしはなんと言ったらいいかわからずに、どうして自分がここにいるか考えた。真っ先に足が向いてしまったわけをなんて説明していいだろう。




「なんでだろ・・・・。わかんないや」
さん・・・・?」
「でもね。なんだかここに来なきゃって思ったの」




冷たい地下室の扉に触れて、知らないはずの扉の感触を確かめた。




「変だね。おかしいね・・・・」




知らない扉は、なぜだかとても懐かしい。ノブに触れたことがある。回し方のクセも知っている。それでも、わたしはなぜここに来たかったかがわからない。
この先にあるものが、何かなんて予想はつかないのに。




「ここは物置だよ。僕も何かあると思ったんだけど・・・・」
「・・・何も、なかった?」
「あったのは、作りかけのプラモだけ。・・・・・意味がわからないよ」
「そう、だね・・・」




プラモなんて、夏美ちゃんの趣味でもなければ冬樹君の好みでもない。




「とりあえず、あがろう?」
「・・・・・・ん」




年下の冬樹君が、優しく手を握ってくれる。そうされると落ち着けた。けれど同時に、さっき見た女の子にどうしようもなく申し訳なくなる。なんだか他人の大切なものを無断で借りてしまったような罪悪感に、わたしは思わず彼の手を強く握り返してしまった。
冬樹君がこちらを向く。でもわたしは笑って、答えることをしなかった。
知らない少女に立てる義理が、恐ろしくなってしまったからなんて言えなかったから。




「はい。これで落ち着くと思うよ」
「ありがとう」




マグカップを受け取って、お礼を言う。冬樹君は優しく笑って、わたしの前に腰を下ろした。受け取ったマグカップは優しい甘いいい香りがして、口をつけるとやっぱり甘い味が口いっぱいに広がった。




さん、ココア好きだったよね」
「うん。これ大好き。ちゃんとミルクあっためてくれたんだね」
さんはそれが一番好きだって聞いてたから・・・・と、あれ?誰に聞いたんだっけ」




冬樹君が、首をかしげた。そういえば、わたしは誰にもココアが好きだなんてことを話してはいない。
子どもっぽい飲み物だと冷やかされる気がしたから、好きでも言わないでいたのだ。
それなのに、なんで冬樹君が知っているのだろう。だって、夏美ちゃんを通して数回しか話したことはないはずなのに。


殿」
っち」
「お前」
「アンタ」
氏」


まるで昔からの友達のように、冬樹君を感じるのはなぜなんだろう。




さん・・・・泣いてるの?」
「・・・・え」


視界が歪む。気がつくと、わたしの両目からは涙が流れ落ちていた。


殿っ!なにごとでありますか?!」
っち。なんで泣いてるですぅ?」


あなたたちは、誰?


「クーックック!いつまでも泣いてちゃわからんぜェ」
「何か、拙者たちに出来ることはないでごさるか?」


知らない、はずなのに。


「ほら。これでも飲んで元気を出すんだな」


あのとき出されたマグカップは、今まで慰めてくれた誰よりも温かかったのだ。




さん・・・・?」




ぽたり、とマグカップに雫が落ちた。あんまり自然に涙が溢れ出すものだから、わたしは困っている冬樹君に何も答えられないままただ涙を流し続けた。知っていたものを、大切な何かを失ってしまっていた穴を気付かないように誤魔化していたのに、傷口はじくじくと幅を広げてもう気付かないではいられなかった。




「忘れちゃったの」




どうしても思い出せない。でもそれは確かに大切だった。
能天気な笑顔も、名前を呼んでくれる声も、扱いづらい性格も、全部全部大切だったのだ。
それなのに、もう自分の心にはぽっかりと空いた穴しかない。
思い出すのは、断片的な思い出たちばかり。





「ごめんなさい」




嘘で塗り固めて守った心は、あっけなく崩壊してしまった。

謝ったのは、もうそれしか出来なかったから。












 

 

 

君がいた証なんていらないから、君自身が此処にいて

(06.05.01)