眠い。わたしはひとり掛けのたっぷりとした椅子に座りながら、頬杖をついて眉間に皺を刻む。思い切り不機嫌なわたしは、眠気よりも目の前の男に対する怒りのほうで頭をいっぱいにしようと努力した。うっかり瞳を閉じてしまったら、眠ってしまいかねない。 男は悪びれた様子もなく向かい側のソファに座り、朝も早いと言うのにきっちりと服を着替えていた。わたしは彼に起こされたばかりで寝巻きのままだ。それが更にわたしは苛立たせた。この男は着替える余裕も与えてくれない。 「だから、さ」 男が至極真剣に、改まった口調で話し出す。わたしは閉じそうになる瞳をなんとか開け、彼をにらみつけた。手を組んで瞳を悲しそうに歪ませる男は、まるでたった今世界の終わりを迎えたような顔をしている。 「夢を、見たんだ」 「…………ゆめ?」 「そう。夢だよ」 言うなり顔をあげ、澄んだブルーの瞳にわたしが映る。普段馬鹿ばかりやっている人物のくせに、真面目な顔もできたのか。わたしは覚醒しきれない頭でぼんやり考える。 男は苦渋に満ちた顔で、憎々しげに続ける。 「君が、いなくなる夢だった」 「…………は?」 「いないんだ。どこを探しても。誰に聞いても君のことなんて知らなくて、俺はもうどうしたらいいかわからなくて…………!」 重たい頭を支えていたわたしの腕がずり落ちる。頭を抱え絶望に打ちひしがれる男の頭上の時計は、五時を指していた。もちろん早朝の、だ。 じゃあ、なにか。この男は自分の夢見が悪かったというだけでインターホンという武器を使ってわたしを強制的に目覚めさせ、寒いウザイと罵っているにも関わらず椅子に座らせているというのか。 わたしはたぶん、今現在この世界で誰よりも呆れている。そして一番寛大な心も持っているに違いない。もう怒る気力もなくなってしまっているのだから。 「それはまた…………楽しい夢ね」 「冗談じゃないんだぞ!」 近所迷惑などお構いなしに、男―――――アルフレッドが叫んだ。叫んだと同時に立ち上がり、あまりの声の大きさに目眩を起こしているわたしの腕を掴む。なにをするつもりだ、と訝しげばアルフレッドは険しくさせていた目元にいっぱい涙を溜めて、へなへなと力なく床に座り込む。 「冗談じゃないんだぞ…………」 「…………」 「君がいなくなるなんて…………。誰も、君を覚えていないなんて」 いやだよ。ちょうど座り込んだ彼の頭はわたしの膝あたりで、あんまりにも絶望的に呟くのでわたしは眠気の八割が飛んでしまった。常に勝気で自分が大好きなヒーロー人間だから、アルフレッドが弱気になるとわたしはどうしたらいいかわからなくなる。 そっと腕を伸ばして恐々金色に光る彼の髪に触れた。 「朝っぱらから何かと思えば…………」 君がいなくなった夢を見た、なんて今時幼い女の子だって言わないだろう。ましてやそれで居てもたってもいられず恋人の部屋に乗り込むだなんて、狂気の沙汰だ。 けれどそれをしてしまえるのが、わたしの恋人であるアルフレッドなのだ。常に本気で、どうしたって自分勝手で、誰よりもわたしを愛してくれる愚かな人。 「アルフレッドは、馬鹿ね」 「…………ば、ばか」 「そうよ。わたしがいなくならないように捕まえているのが、あなたの役目でしょう」 世界中の人間に忘れられようと構わなかったし、それで困る人間などいない。けれど、この男に忘れられたらわたしはきっと絶望するのだろう。わたしのためにこんなふうに狼狽してくれる、優しい恋人を失うだなんて考えたくない。 アルフレッドは何度かまばたきをした後で、わたしの腕を両手で握る。子どものように高い体温のせいで、わたしの体は徐々に熱を帯びていく。 「…………いなくならない、とは言ってくれないのかい?」 「言わない。アルフレッドが目を離したら、わたしは風船みたいに飛び立つかもしれない」 実際、そんなことは出来やしないと思う。 「そんなことさせないんだぞ!」 突然がばりと音を立てて、わたしは椅子からひっぱられて抱きしめられる。アルフレッドは力のかぎり、その腕でわたしは閉じ込めようとしているようだった。単純に、腕の中でわたしは幸せだった。眠気も苛立ちもなくなり、もっと早くこうしてくれればよかったのに、と思う。もっと早く腕にいれてくれれば、無駄な問答もしなくてすんだのに。 「絶対絶対、なくしたりしない。探し回るのも不安になるのも、いやだよ」 「…………そう」 「がイヤだって言っても、もう聞いてやらないんだぞ」 だって、約束してくれないんだから。 拗ねたアルフレッドは腕の力を弱めようともせずにわたしに呟く。その強さと裏腹に、か細く消え入りそうな声が愛おしい。 わたしは彼に約束をしたくなかった。約束で、安心してほしくなかった。愛情などいつ消えても可笑しくないのだし、わたしも彼もいい大人なのだ。大人の分別ほど愛情を紛失しかねない理性はない。 「わたしも、アルフレッドを失うのは怖い」 腕の中、ゆるゆると戻ってきた眠気に体を預けながらわたしは答える。 どちらか一方、それとも両方かが気を張っておく必要があった。愛情は形がなく、それなのにわたし達に確信を持たせるので勘違いしかねない。思いはいつだってふたりとも同じだなんて、誰も裏付けられないのだから。 ふたりで怖がっていよう。そうすれば、愛情がなくなっても一緒にいました、なんて間抜けなことには絶対ならない。愛情を見張っていれば、ふたりともそこにいられる。 「すきだぞ。」 だから、アルフレッドがいちいち確かめてくれるのは有難い。わたしに愛情があるか。自分に愛情はあるのか。彼はきちんと存在を認めた上で、わたしに言ってくれる。 「…………わたしもだよ」 窒息しそうな腕の中で答えると、耳元で安心したようなため息が聞こえた。愛情の含まれたため息は、彼の体の中にわたしへの愛情が確かにあることを教えてくれる。 あぁ、わたしはまだ彼をなくさなくていいのか。眠りに落ちる前、彼の服を必死で掴んだわたしも少しだけ怖かった。彼を失うことと、自分が愛情を失うこと、そのどちらも恐ろしくてわたしは逃げるように瞳を瞑る。 |
逢瀬は星屑の海で
(09.12.23)