近頃ナイトメアの様子が可笑しい。会合の期間が終了し、やっと事態が収拾し終わるとクローバーの塔は驚くほど静かになった。元々遊園地のようににぎやかなわけではなく、帽子屋屋敷のように騒がしくもなかったのだから当たり前と言えば当たり前なのだけれど、催し物が片付けられた跡地というのは総じて寂しい気がする。それが自分のせいでひと波乱起きたあとでも同じように。 この国に残ることを決めたわたしは、クローバーの塔で仕事をしながら住まわせてもらっている。仕事と言ってもある程度の家事やグレイの手伝い、それにナイトメアの監視だ。仕事をサボることや部屋から逃げ出すことに対して、ナイトメアは驚くほど熱心だった。 その彼が近頃ぴたりと逃げることをやめた。だがただやめたわけではなく仕事をさっさと終わらせる努力までしている。いつものように監視がてら同じ部屋で資料の整理や本を読みながら、わたしはちらりとナイトメアを見つめる。ユリウスにもらった歯車があるのでナイトメアに心を読まれることはないが、それでもこれだけ訝しげば気付かれるかもしれない。けれどナイトメアは軽快に書類に判を押している。きちんと目を通しているのかいないのかわからないスピードで。 「なぁ、。君は何が好きだ?」 「は?」 眉を八の字にしたまま、低い声がでた。ナイトメアは判を押す手は止めずに「だから」と付け加える。 「好きなお菓子だよ。色々あるだろう? クッキーとかケーキとか」 「いきなりだね…………」 「仕事が一段落したら休憩だろう。もちろん君も一緒に」 にっこり笑って言うものだから、はじめ何を言われたのかわからなかった。あのナイトメアの仕事が「一段落」つくことなど今までありえなかったのだ。疲れたからと言って強制的に休憩に入ってしまう彼が、残り少なくなった書類を見つめながらもう少しだと笑うのがどうしても本当と思えない。 えぇ、うん、まぁ。自分でも曖昧な返事をしたと思う。けれどナイトメアは気分を害した風でもなく、笑ったまま続けた。 「じゃあ先に珈琲を淹れてくれるか? お菓子の選択は任せるよ」 「う、うん」 まともすぎるナイトメアは気味が悪い。わたしは思ったことを即座にもみ消すように笑った。本当に思っていることが伝わりにくくてよかったと思う。 ソファから立ち上がり、もしかしたらわたしを追い出す作戦かもしれないと疑ったけれどナイトメアは相変わらず小気味よく判を押すものだから勘ぐるのも疲れてしまった。ついでに片付けなければいけない資料を抱え、部屋を出る前にナイトメアと目があう。あまりにも純粋な、けれど仕事というより何か別の目的をもった目だ。 扉を閉めて首をかしげながら歩き出そうとしたわたしは、隣に立つ人にやっと気付いた。 「うっわ、アリス!」 「こんにちは、」 こちらも貼り付けたような笑みのまま、アリスが返事をした。 「ど、どしたの。こんなところで」 「ナイトメアに頼まれてきたの。いいから、ちょっとこっちに来て」 言うなりわたしの腕をとったアリスに引っ張られながら、わたしは頭に疑問符ばかりが浮かんでは消える。あのちょっと、アリスってば!いいからいいから、楽しみにしていて。楽しげなアリスはわたしの質問に答えようとしない。ため息をついてアリスの華奢な後姿を見つめ、彼女が一緒ならば少なくとも危険なことではないだろうと諦めた。 * * * * * * * * * * 「…………アリス、本当に変なところはない?」 機嫌のいいアリスに連れて行かれたのは衣裳部屋だった。使ったことはないが大きなお屋敷には付き物だという広々としたクローゼットや立ち並ぶ衣装たちを抜け、着替えのできるスペースでアリスから思いがけないことを告げられた。 単純に言えばほとんど馬鹿らしい、けれどだから笑ってしまうほど幸福なイベント。彼女の語ったそれらに賛同し、わたしは馬鹿げた話にのってあげることにしたのだ。アリスに手伝ってもらわずには着替えられなかったし、もちろんわたしもアリスの着替えを手伝わなければいけなかった。わたしたちの着ているものは、驚くほど凝ったつくりだったもので。 「大丈夫、綺麗よ」 「…………綺麗かどうかはともかく、ファスナーがあがってれば問題はないかな」 「そんなこと言わないで。だって本当に素敵なのよ?」 くすくす笑うアリスは、彼女の言う素敵より何倍も可憐だった。わたしたちは揃ってある扉の前に立ち、ノックのタイミングを窺っている。部屋の中には確かに人の気配がするし、アリスの言うとおり「計画」は真実らしかった。 アリスがわたしに目配せをし、拳を猫のようにしならせて扉をノックする。淑女みたいな身のこなしにわたしは心臓の裏側あたりがすうすうするのを感じた。 「…………どうぞ」 くぐもった、少し緊張しているようなグレイの声。扉はわたし達が開けることなく内側に開かれた。まるでドアマンが最初からいたかのように自然な動作だ。 いっきに開かれた視界に目を細める。部屋の中はあまりにもまぶしかった。 「ようこそ、! アリス!」 部屋に入らずにいるとわたしとアリスの両脇から同じように手が差し出された。アリスにはグレイが、わたしにはナイトメアが畏まった所作で「お手をどうぞ」と微笑んでいる。ふたりともいつものスーツではなくフロックに身を包んでいるので、本物の紳士のようだった。 「ナイトメア!」 「やはりアリスに頼んだのは正解だったな」 「えぇ。やはりアリスに頼んで正解でした」 「お褒めいただき光栄だわ。綺麗でしょう?」 中央に誘導されながら会話はスムーズに流れていく。ナイトメアはわたしをしげしげと眺めたあとに満足したように微笑んだ。 「あぁ、綺麗だ。私の見立てたとおりだな!」 「えぇ、やはりナイトメア様はやればできる方なんですよ」 見当違いに褒めているグレイはすでにクセになっているのかもしれない。わたしは周囲に並ぶ部下の人たちまで拍手をして賛美をおくるので――――お綺麗です、様。さすがナイトメア様の選んだドレスですね――――視線をどこにやればいいかわからずに照れてしまう。 わたしとアリスはまるで舞踏会にでも出るようなドレスに着替えていた。ビバルディの主催した舞踏会にも出られるような豪華な代物だ。アリスは薄い桃色のドレスで、ふんわりとした裾が可愛らしい。シンプルな中に刺繍がほどこされ、精錬された気品を醸し出している。対照的にわたしのドレスは光沢のあるエメラルドグリーンで、レースがふんだんにあしらわれている。胸元には同じ色の大粒の宝石を飾り、レース仕立ての手袋、履いているヒールも濃いグリーンだ。 はっきり言えば恥ずかしすぎる。今日はパーティが開かれているわけでもなければ舞踏会でもない。けれどアリスもわたしもこうやって、大人しくドレスを着ていた。主賓と思わしき椅子に誘導され、すとんと慎重に座ったわたしはナイトメアを見上げた。 「それでナイトメア。今日のパーティは何の記念なの?」 まるで何も知らないような顔をして聞いてみる。ナイトメアが一瞬、笑顔を崩した。彼らの打ち合わせどおりなら、アリスによってドレスのネタ晴らしは済んでいるはずで、だからわたしは了承済みでこの部屋に訪れていると思っている。けれどわたしはやはりナイトメアやグレイの口から聞きたかった。わたしがこんな豪華なドレスを『贈られた』理由。 「あ、それはえーと…………アリスから聞いただろう?」 「そうだったっけ? アリス」 「さぁ。話し忘れちゃったのかもしれないわ」 すっとぼけてくすくす笑う。わたしは歯車をつけていないから、きっと考えていることなどバレている。だからからかうのはやめて、素直にお願いをしてみることにした。 あなたの口から聞きたいの、ナイトメア。まっすぐ目を見つめれば、彼はすぐに観念してくれる。 「あぁもう、君たちには適わんよ。そのドレスは、私やグレイが贈りたくて贈ったんだ。は帽子屋やハートの女王、果てはボリスやピアスからもドレスを贈られていただろう? それなのに主催者の私からは何にも贈っていないなんて悔しいじゃないか」 「…………がいるときに会合がなかったためではあるんだがな、それでも俺やナイトメア様と一緒に出て欲しかったんだ」 「そうだぞ。クローバーの陣地に、そのドレスで並んでほしかった」 うんうんと納得するナイトメアに、このドレスじゃあわたしだけ浮きすぎじゃない、と愚痴を言ってみたけれどブラッドのドレスさえも着て登場したのだから強く拒否もできない。確かに洗練されたデザインは素敵だし、ナイトメアやグレイのセンスはいいと言えるだろう。ただ、着せたいだけで女性にこれだけ豪華な贈り物をする金銭感覚に問題はあるかもしれないけれど。 「ありがとう、ナイトメア。ドレス負けしちゃうくらい素敵な贈り物」 「それなら心配ないさ。充分、君は美しい」 美しい。背筋に知らない寒気がのぼって、びくりと反応する。夢の中にいないナイトメアは、こういうとき恐ろしく澄んだ瞳をするので手に負えない。チークをいつもより抑えて正解だった。今のわたしの頬は、ほんのりと赤いに違いない。 「君を他のヤツラに見せ付けられないのは残念だが、今日は内輪のパーティだ。甘いものもたくさん用意したから楽しもう」 「…………ナイトメア様はあまりシャンパンを飲みすぎてはいけませんよ」 うきうきとした調子で色とりどりの菓子が並ぶテーブルに向かうナイトメアの背中にグレイが声をかけるがまったく聞こえていないようだった。ナイトメアの言うとおり内輪のパーティらしく、部下の人たちも正装しているがほのぼのとした空気だ。ゆったりと音楽が流れているので探せば、少人数だが楽団が配置されていた。 「…………。君もシャンパンでいいか?」 「グレイ」 「驚かせてしまってすまない。だが、こういう趣向もたまにはいいだろう?」 細いシャンパングラスを手渡しながら、グレイは微笑む。確かに服装はいつもと違うけれど、だからとても楽しかった。わたしにドレスを贈るだけだというのにこれだけの用意をしてくれた、という事実もくすぐったい。シャンパンは甘く、喉を滑り落ちていく。 視線の先ではアリスとナイトメアがケーキの棚で議論を重ねているようだった。 「君も何か食べるか?」 「…………そうだね。グレイは?」 「俺はあまり甘いものは食べないんだが…………まぁ、ひとつくらい頂こう」 そう言ってわたしの目の前に差し出された手。わたしは困った表情を作って、グレイの手に自分のものを重ねた。どこまでもエスコートしてくださるらしい。くすくす笑うわたしに、今度はグレイが困った顔をする。 「そんなに可笑しいか」 「違う。贅沢すぎて、変なの」 「贅沢?」 「そう。だって素敵な王子様にエスコートされているでしょ?」 まるでナイトメアの見せる夢みたい、と笑えばグレイはもっと困った顔をする。 「俺はそんな柄じゃないんだが…………」 「そんなこと言ったらわたしだって柄じゃないよ」 「いや君は…………」 足を止めてグレイがわたしの瞳を覗きこむ。ヒールを履いているので少し近くなった距離は、いとも簡単に黄土色の瞳に呑まれた。どきりとするほど端正な顔立ちに、わたしは表情を固めてしまう。グレイがふわりと息を吸い込むみたいに笑うまで、わたしは息を止めていた。 「上手い言葉が見つからないが、君は本当に似合ってる」 「…………あ、ありがとう」 「俺は王子なんて柄じゃあない。だがそうだな…………盗賊にでもなれば君を攫えるかもしれない」 握った手をぐっと近づけて意地悪げに笑ったグレイに、わたしはそれこそ上手い返し方ができない。「冗談だ」とグレイが笑うまで、ただ硬直していたわたしはいっきに紅くなった。もうチークなど関係なく、みっともないくらい赤面しているだろう。 「グレイの意地悪」 「意地悪じゃなく本心なんだが…………そうだ。せっかく楽団がいるのだから一曲どうだろう」 「え」 言うが早いかグレイが目配せすると楽団は曲調を変えて演奏を始めた。ワルツだ、とこの世界で覚えた知識を総動員して考える。踊る機会など皆無に等しかったがビバルディに粗相を働くわけにもいかず、舞踏会のために猛特訓した曲だった。 まばらだった人々がすっと中央ホールを開けた。 「俺と踊ってくれますか、―――――」 再度伸ばされた手。わたしは恐る恐る自分の手を持ち上げて―――――――グレイの手の中に収まる前に別の手に捕らわれた。 「ずるいぞ、グレイ! 私がいない間にダンスを始めるなんて!」 「ナイトメア様」 「そのために呼んだ楽団だろう。さぁ、。踊ろう――――」 「待って待って!」 拗ねた口調のナイトメアがひっぱるのを必死に止める。ダンスが嫌なわけではないが、ナイトメアは少し浮かれすぎていた。わたしはまた拗ねようとするナイトメアの後ろを指差す。 「ダンスはお受けするけれど、もうひとりお姫様がいることを忘れてない?」 言われてようやく気付いたナイトメアとグレイが罰が悪そうに振り返れば、これ以上もないほどにっこり微笑んだアリスが立っていた。ドレスだからそんなはずないのに、まるで仁王立ちになっているような威圧感と共に。 それからはアリスのご機嫌をとり、ナイトメアやグレイとダンスを踊って、わたしはきっちりパーティの主賓を演じきった。ナイトメアが厳選したケーキはどれもはずれがなく文句のない美味しさだったし、グレイの用意したシャンパンは味わったことのない清々しさばかりを残していく。 ありがとう。パーティの間中わたしは何度もナイトメアやグレイ、それに用意をしてくれたアリスや部下の人々に言った。楽しいと思うたびに小さく痛む罪悪感を飲み込む代わりに、ありがとうと声に出す。心の底から嬉しいくせに、だからこそ喜んではいけないと戒める自分に辟易するが、背負っていくと覚悟したのだからわたしは笑わなければいけない。 「ありがとう、みんな」 ドレスを着てここに立つ自分が本物だと言い聞かせて、わたしは笑う。 |
廃墟の国でワルツを
(10.05.01)
光紗さまに捧げます!