雨の日は空気が重苦しく沈んでいるようだ。せっかくの休日であるのにこんな天気では出て行かれない、とは思う。部屋の中は適温に保たれているがどうしても湿度が高い。これでは洗濯ものをしても渇かないだろうし、だからと言って部屋干し用にエアコンを除湿にするのも億劫だ。テレビもラジオも音楽もつけず、耳に届く音と言えば雨音ばかりの部屋で座り込みながらなんだかとても孤独になったような気持ちになった。


『…………きっと寂しいぜぇ?』


物音が少なすぎるせいで、脳内で声がリフレインした。いつかのクルルは普段見せないような笑みを向けながらそう言った。まるで同情するみたいな顔をして。
寂しい、なんてわたしが言えるわけないでしょう。表情を硬くしてそう答えたはずだ。がしでかしたことは同情を誘う類のものではない。クルルに頼んだけれど受けてくれるとは思わなかったし、どっちみち計画が知られれば非難されるだろうと思った。
それなのにクルルは願いを聞き届けてくれた。馬鹿みたいに切実な、けれどやっぱり後悔が押しよせる願いごと。


「…………雨、止まないかなぁ」


止んだとしてもどこに行くあてもない。こうやって部屋の中で孤独をやり過ごすのはもう慣れたけれど、どうしても外に出たくなる。誰と会うわけでもなく、駅の中やデパートを歩き回ってまるで社会に馴染んでいるみたいな顔をしていると少しだけ落ち着くのだ。少なくとも誰もわたしを必要としていないのではなく、こちらから必要だと思わないだけだと強く思える。
窓ガラスに小さな粒がいくつもあたり、細くなって流れていく。


『…………それは本当に殿が望むことなのでありますか?』


クルルの次はケロロだ。決断を話したとき、ケロロは叱るのでもなく怒るのでもなく静かに問うてくれた。ケロロが焦ったり取り乱したりすればわたしは頑として考えを改めようなどと思わなかっただろうが、あんまりにも冷静に見つめられるのでもしかしたら他に道があるのかもしれないと錯覚しそうになった。けれどそんなものがないということも知っていた。
重々しく頷くとケロロは呆れるようにため息をついて、子どもを見るような視線でわたしを見つめた。全く仕方がない、と言いたげな瞳。


殿がしたいんならいいでありますよ』
『ありがとう、ケロロ』
『でもさ、いくら我輩たちの記憶から殿を消したところで辛くなるのは殿だけでありましょうに』


知ってる、と声に出さずにわたしは笑う。ケロロ達の記憶からわたしという存在がなくなったとしても、痛くもかゆくもない。けれど思い出さずにはいられないわたしの傷は癒えることなどないのだろう。ケロロや冬樹君、その他宇宙人と関わる人々の記憶からわたしは消えたのだ。
どうしてそんなことをしたいのか、ケロロは聞かなかった。だから知っていたのだろうと思う。誰かに聞いたわけではなく日常の態度から漏れ出していた情報のせいで、感づかれていたのだ。わたしの態度は思えば露骨だったかもしれない。


「…………好き、だったんだもの」


好きだった。話していなくても存在を目で探して、話し声がすれば耳を澄ました。姿を見つければ自然と笑顔になったし声をかけられれば舞い上がった。どんなに取り繕っても誤魔化せないほど好きだった。諦めようとしても無駄なほど恋しかった。
ただわたしの好きな人には、わたしが好きになるよりずっと前から片思いをする人がいた。言葉にすればどこにでもあるような、けれど自分に降りかかるとこれ以上の不幸はないと思える出来ごと。
ざぁざぁと雨脚を強めた天候は悪くなる一方だ。テーブルに額をくっつけるようにして絶望に浸りながら、もう部屋をでる気力もなくしてしまった。思い出の箱は開けていないのにどんどん哀愁を運んでくる。
好きで好きで仕方がなくて彼がわたしを知っていることが苦痛になった。こんなふうになるのなら出会いたくなかったと思ったのに、けれど望んだのは彼の記憶だけを変えることだった。自分の思いが苦しいくせに、どうしても捨てられなかった。捨てる選択などなかったわたしは、ひとりになって初めて痛感した。誰かの記憶から抜け落ちることの寂しさ。


「…………もー遅いけどね」


ケロロやギロロやタママ、ドロロやクルルや地球人のみんなの記憶から綺麗さっぱり消えたわたしの世界のなんと単純なことか。
まるで宇宙人がいることなど知らないような一般人になるしかなかった。食べるために働いて、退屈を紛らわすために遊んで、孤独を埋めるために買い物をした。友達なら彼ら以外にもいたのだし、だから日常に戻るのは簡単だったはずなのだけれど、どうしても意識の半分がもっていかれてしまって戻ってこない。後悔するには遅すぎた、と思う。なにもかも遅すぎたのだ。傷つくのが嫌でしでかしたことなのに、もう誰も手を差し伸べてくれないことに絶望するなんて愚かだ。
じわ、と涙が溢れ出しそうになったときだった。ぴんぽーんと間抜けな音が部屋に響く。


「…………宅急便?」


ぴんぽーんぴんぽーんぴんぽーん。無視しようとしたのにあまりにも五月蝿く鳴らされるので頭にきた。涙を拭ってワンルームの部屋の短い廊下の先にある扉の覗き穴に頭を寄せる。友人の誰か、という確率も少なくなかったし、もちろん宅急便なら文句のひとつでも言ってやろうと思ったからだ。けれどわたしの思考は突然後頭部にあてられた金属音のせいで中断した。あてられるというよりは押し付けられたそれのせいで、わたしの額はがつんとぶつかる。


「いった!」
「…………動くな。抵抗すれば撃つ」


お決まりの台詞が聞こえ、目を見開く。聞いてはいけない人の声だった。動くなという命令よりも声だけで体は身動きがとれなくなる。冷たい扉に頬を押し付けて、頭の中でどうして、を繰り返した。


「わけがわからないという顔だな。貴様、自分がしたことを忘れたとは言わせんぞ」


低い、融通の利かない声。視線はするどく怒りを顕わにしているのだろう。目を瞑ってもわかる、彼の表情。わたしは泣き出しそうになるのをなんとか堪えた。


「もう、バレたの?」
「もう、とはなんだ。貴様半年近くも俺たちを騙しておいて、罪悪感はないのか!」
「半年? ……………………わたしはもう十年も過ごしたような気がしたんだけど」


それしか過ぎていなかったの、と苦笑気味にわたしは吐き出す。ギロロはわたしの頭に銃口を突きつけたまま、更に怒りを膨らませた。


「理由を聞こう。なぜ記憶を消すような仕事をさせたんだ」
「…………それよりわたしが聞きたいよ。なんで、ギロロの記憶は戻っているの」
「貴様は立場がわかっていないらしいな。質問をしているのは俺だ」


ごり、と銃口が捻られる。わたしは言おうかどうか一瞬だけ迷い、目を瞑った。


「好きだったの」
「…………は?」
「好きで好きで好きで好きで、どうしようもなく好きで愛してて苦しくて、でも振り向いてもらえないってわかってたから悲しくなって辛くなって…………わけがわからなくなって狂っていってあるときふと気付いたの……………………少しでも可能性があるから苦しいんだろうって」


だから万に一つでも可能性がなくなれば、諦められるだろうと思ったの。
なぜよりにもよってギロロの記憶が戻ってしまったのだろう。例えば他の誰かならよかったのに、どうしてわたしが一番消えて欲しかった人の記憶にわたしがいるのだろう。
この半年間、なくなるどころか前よりもっと大きくなった思いはすべてギロロへ向けたものだというのに。


「部屋も引っ越したのになぁ」
「俺たちを舐めるな。貴様の居場所くらいすぐに割り出せる」
「違う人と付き合ってみたり、したんだけどなぁ」
「三日と持たずに別れただろう」
「…………随分、詳しいんだね」
「クルルに調べさせた。貴様は考えが幼稚だな」


いったいいつからバレていて、どのあたりまで露呈しているのだろう。考えてみて恥ずかしくなったわたしは、けれどやっぱり絶望的な未来しか描けない。


「それで、どうしてここに来たの。罰なら受けるけど、戻らないことには変わりないでしょう」


日向家にも宇宙人のいる日常にも、わたしは戻らない。例えばここで彼らの記憶をなかったことにされたとしても仕方がないのだが、それでも絶望にいるよりずっといいのかもしれない。
思い人に終止符を打たれるなんてまるでメロドラマだ。


「何を言っている。貴様は俺と一緒に戻るんだ」
「はぁ? みんなに謝れって言うの? それでなかったことにしろなんてそんなこと」
「なかったことにしろなんて言うつもりはない。だが、俺の努力を無駄にしてくれるな」


圧迫感が消えて、わたしの後頭部から銃口が下げられる。恐る恐る振り返れば、ギロロが廊下に降り立ったところだ。煌く羽が一瞬で消え去る。
ギロロはひどくやつれたように見えた。薄暗いせいかもしれないが、顔色も悪い。


「わけのわからん不快感に半年間も苛まれた。前線に出ていたときもこんな精神状態のときなどなかったぞ…………」
「…………いや、それとわたしは関係ないんじゃ」
「ある。俺があると言ったらある。貴様はつべこべ言わずに俺と戻れ」


目が据わっているギロロはかなり体力を消耗しているようだった。前線と比べられても知らないそんなこと、と言いそうになったわたしの背後でがちゃりと扉が開く。驚いて見れば、ケロロが立っていた。


殿もうかえろーよー。我輩、もう赤ダルマの我慢比べに付き合うの疲れちゃったしぃ」
「ケロロ! 貴様は外で待機していろと言っただろう!」
「ギロロ要領悪いんだもん、帰れないじゃん。あのねぇ殿、この赤ダルマは殿の記憶を無くしてからもう大変で大変で…………しまいには我輩が元凶だって追いかけてきてもうマジウザいなんてもんじゃなかったんでありますよ」
「それで根負けしたってわけ…………?」
「まぁ、言ってしまえばそうであります」


罪悪感のカケラも見せずにケロロは笑う。ということは最初のわたしの約束はすでに果たされていなかったのだろう。ケロロの記憶からわたしはいなくなっておらず、だからギロロに追及されただけで白状できたのだ。わたしは疲れてしまって何も言えない。いいとも悪いとも、帰りたいともここに居たいとも思えなかった。
ケロロが大仰に息を吐き出す。あの日みたい、と頭の隅で考えた。


「帰ろ、殿。…………殿を苦しめてた元凶が、帰ろうって言ってるんでありますから」


おいこら、ケロロ貴様!
ギロロが真っ赤になって怒り出し、ケロロはひょいっとわたしの影に隠れた。あまりにも近所迷惑な声なのに雨だけがわたしたちを取り囲んでいる。わたしはギロロと目があい、信じられずに見つめ続け、ギロロの方が先に視線を逸らした。いつだって真っ赤な体だったのに、今は夕焼けよりも赤い。


「ギロロ…………?」
「い、いいから! 戻るぞ!」
「あーあー、これだから不器用な男ってヤダヨネー」


わたしの肩から顔を出したケロロが憎まれ口を叩くので、ギロロは銃を出したりしまったり大忙しだ。わたしは未だに繋がらない思考回路に戸惑って上手く口が動かせない。そんなわたしの耳元で、小さくケロロが囁いた。


「久しぶり、殿。寂しかったでありましょう?」


その、なんとも老成された食えない声。ケロロの声がきっかけになり、涙が溢れてぼたぼた流れだした。思いも後悔もすべてが収まりきらなくなって、もうわたしの中はいっぱいだった。玄関先でわんわん泣いている滑稽な女だと思われるかもしれないけれど、半年分の思い出がよみがえってそれどころではなかった。
辛かった苦しかった、でもそれ以上に愛おしくて。


「馬鹿ギロロぉ」


迎えに来てくれてありがとう、なんて死んでも言えないから代わりにずっとそう言おう。鬱陶しい雨が降り止む気配はなく、わたしの涙はしけって重たい。

























(10.05.01)





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