グレイが怖い。 現状での感想を表せばただその一言につきる。わたしは先ほどからぴりぴりと硬質な空気を放つグレイをちらりと見つめ、すぐに視線を逸らした。逸らした先でナイトメアと目が合い、わたし達は無言で頷きあう。 「何を仲良く頷きあっているんです?」 びくり、と肩が震えた。わたしもナイトメアもグレイを振り仰いでぶんぶん首を振る。グレイは顔の表情を上手く使って笑顔でいるように努めているが、なんとなくそれは怒りが爆発する寸前のような危うさをあらわしていた。わたしとナイトメアはソファに並んで座り、腕を組んだグレイに見下ろされている。 そもそも何故わたしまで怒られているのだろう。仕事をサボっていたのはナイトメアだし、わたしは休憩時間中だった。町中で見かけたナイトメアは上着すら着ていない状態で仕方がないのでお茶に付き合ったのだ。だから仕事の進み具合が最悪だったのにも関わらずのんびり遊んでいた責任はナイトメアにあるのだと思う。 「いやいやいや?! 君、まさか私にすべてを押し付けるつもりじゃあないだろうな!」 「考えを読んだならわかるでしょ。わたし、悪いトコないじゃない」 「それはないだろう! 君だって一緒にサボったようなものじゃないか!」 「い、一緒にお茶しただけじゃない」 「いぃやぁ? 君だって楽しかっただろ。喫茶店に併設された手芸コーナーに見入って手習いまで受けていたじゃないか!」 「いやそれは楽しかったけどさ! でもうっかり三時間帯も過ぎてるなんて思わなくて」 「ナイトメア様、」 地の底から轟いてくるような声にわたし達は口を噤んだ。グレイの瞳は据わっている。 「あなた方のいない分の穴を、俺ひとりで回していたんですよ。それはおわかりですか」 「わ、私がいなくともグレイは大丈夫だろう。うん、いい部下を持って私は幸せだ」 「いくら俺が頑張ろうと決済をお持ちなのはナイトメア様であって、その決済待ちの書類のせいで新たな書類が増えるんですがそこのところはもちろんお分かりでしょうね。えぇ、知っていると思いますし信頼していただけるのは嬉しいんですがあの山を見ると胃痛がするるようになってきましたし………そろそろ危ない血管が切れそうになるんですよ」 「あ、あぶない血管…………?」 「そうです。…………例えばなんとか袋の…………」 堪忍袋、と瞬時に思った。それは堪忍袋の緒であって血管じゃないかもしれない、とは思ったが口には出さない。かわりにナイトメアを肘で小突く。 「わ、わかった! 仕事をする!」 「ようし、じゃあナイトメアのお手伝いを―――――――」 「」 決断したナイトメアに便乗して一緒に部屋を出て行こうとしたわたしを、グレイが止めた。無論声だけなのだが、まるで首根っこを摘まれたような気分になる。 「ななな、なに?」 「君には俺の手伝いをしてもらう。ナイトメア様と一緒だと、また楽しい発見をしてしまうかもしれないだろう?」 「えー……いや、心を入れ替えて頑張りますよ?」 あはは、と笑ったわたしにグレイは眉ひとつ動かさない。ちらりと隣にいるナイトメアに視線を移せば力なく首を振られた。無駄だよ、行って来い。読心術はできないはずなのに、はっきりそう聞こえた。グレイの心労メーターは振り切ってしまったらしい。 結局書類の決裁を始めたナイトメアとは別の部屋で、わたしはグレイと仕事をしている。わたしの悪いくせなのだが大変緊迫しているのはわかっているのにそんなときばかり笑顔で乗り切ろうとしてしまう。相手は怒っているのだからしゅんとすればいいのに、笑って不快にさせてしまう。緊迫しているという状況に対する危機感があまりないのかもしれない。だって随分グレイは優しかったし怒っていなかったので、測りようがないのだ。 仕事机に向かう横顔を盗み見ればどことなく疲れているようにも見える。考えて見れば仕事をしないにしても城にはペーターがいる上に王様がすべての裏方を任されているのだし、帽子屋屋敷では体力仕事のエリオットに頭脳労働のブラッド、遊園地はゴーランドが取り仕切り部下たちのやる気が凄まじい。もしかして事務上で一番戦力が足りていないのはクローバーの塔じゃなかろうか。確かにグレイの部下はきりきりと働くが、働いた結果の決済がおりないので話にならない。加えてわたしは戦力外だし、ユリウスにいたっては別枠扱いだ。もしかしてとんでもなく大変なのか、とわたしはようやく気付く。 「…………グレイ」 「ん…………どうした、」 「わたし今大変なことに気付いちゃった。どうしよう、ごめんごめんね。とにかくグレイはちょっと休暇をもらわなくちゃ」 「は? いや、いきなりどうしたんだ。とにかく落ち着いてくれ」 あわあわと動き出すわたしの両肩を持って座らせると、グレイは眉を八の字にする。 「だってわたし戦力不足だし、ここって仕事できる役持ちが一番少ないじゃない」 「…………それを聞いたらナイトメア様が拗ねるぞ」 必死に伝えようとするわたしにゆっくりとグレイは微笑む。思わず笑ってしまった、という不意打ちな笑い方だった。わたしは太ももの上で手を組んで、肩を竦める。 「本当のことだもの、覗かれたってかまわない」 「…………」 「…………どしたの、グレイ」 笑いを堪えようとした格好のまま、グレイが固まった。まさかフリーズしたんじゃあと考えたが、グレイの黄土色の瞳がゆらりと動いたのでその心配はない。ただその一瞬あとに取り繕うように笑ったのを見てしまった。 「いや、君はやはり凄いと思ったんだ。俺にはナイトメア様に覗かれてかまわないものなんてないからな…………」 「え? …………そう言われるとわたしも進んで見せたいものじゃないんだけど」 「慎みがないとかそういうことを言っているわけじゃないんだ。ただ少なくとも君みたいに胸は張れないということで…………ナイトメア様の隣であれだけ無邪気に話せる女性は君くらいだろうな」 目元に哀愁が漂っている、と思ったがそれはただ濃いクマのせいかもしれない。わたしは戻された椅子から立ち上がりグレイを応接用のソファに座らせた。そうして「待っていて」と言い残して部屋を出て行く。しばらくして珈琲とクッキーの乗った盆を持って戻ったわたしはきちんとソファで待っているグレイを見て笑ってしまった。 「はい。休憩とっていないんでしょう? グレイが弱音を吐くなんて、根を詰めてる証拠だから」 「あぁ、すまない。…………確かに根は詰めているが、そんなのはいつものことだ」 「それがいけないんでしょ。遊んでいたわたしが言うのもなんだけど、グレイはガス抜きの仕方がヘタだもの」 「…………そうか?」 「だって趣味らしい趣味がないじゃない。サボるのが趣味みたいなナイトメアも困るけど、仕事人間のユリウスみたいになったらそのうち部屋から出ないなんてことにも………」 「それは心配ない。俺は部下を持つ身だし、なにより時計屋のようになりたいとは思わないからな」 「そ、そう?」 あ、地雷踏んだ。うっかりユリウスの話題を持ち出してしまった自分を責める。グレイのユリウスに対する過剰反応は今に始まったことではない。話題を変えなければと方向転換を図ろうとしたがすでに遅かった。 「だが君は時計屋のような仕事人間の方がいいんじゃないか? この世界に来てから引っ越しまでは時計屋と長く一緒にいたんだろう」 「ま、まぁ落ちたときは天涯孤独の身だったし…………」 「それにアリスに会うまで大して外出もしなかったと聞いている」 「…………みんなが銃を携帯してる世界で頼りもないのに外に出る馬鹿はいないと思うけど」 機嫌が悪いというかある種の不快さを表し始めたグレイに、わたしは疑問を持つ。グレイにとってわたしの過去が未知であるようにわたしにとってグレイの過去はどうしようもなく未知なのに、それを今この場で晒してなんになるのだろう。いくら記憶を辿ったり語り合ったところで埋まらない溝なのに。それでもその溝を埋めようと努力する思いの名前をまだは知らない。 「じゃあ、グレイと一緒にいたらわたしはどこにでも連れて行ってもらえたんだね」 なので別の考えを取り出した。わたしを初めに助け出してくれたのがグレイで、この世界で頼るものも考えのすべても従順に従ったとすればユリウスと一緒の結果にはならなかったのだろう。 けれどグレイは考えるように視線を逸らしたあとに、首を振った。 「いいや…………俺もあまり外には出さなかったかもしれないな」 「え? でもグレイは仕事があるしこの塔はそんなに狭いわけでも」 「広さは関係ないよ。閉じ込めるだけで済む話だ」 閉じ込める、と言ったときグレイは嬉しそうな顔をした。捕食者の瞳だ、と思う。グレイは時折肉食獣みたいな顔を見せるので、忘れていたわたしは新鮮に驚く。 ソファで並んで座るんじゃなかった、と後悔したときにはすでに遅かった。今日は実に鈍臭い日だ。腕が伸びてきたので咄嗟に避けようとして後ろにひっくり返った。わたしはソファの肘起きに倒れ、グレイの両腕に閉じ込められている。 「グレイ…………?」 グレイの影がかぶさるので薄暗くなったように感じる。黄土色の瞳はかすかに揺らめいているがそれは何かを考えあぐねいているようでもあった。数秒、可笑しな間があった。たぶんわたしもグレイも同じように「可笑しい」と感じた間。かき消すようにグレイが笑ったのが随分痛々しく思えたほどだ。 「こんな風に、な。君は危なっかしい」 危なかったのはグレイだ、とわたしは思う。具体的なことなど何一つわからないけれど、今このとき危なかったのは彼だった。手を貸してもらって体を起こしながら、この人はやはり肩の力を抜く方法を知らないと確信する。 「サボっちゃおうか」 「は?」 意外そうな顔は実に真面目でグレイらしい。わたしはいたずらっ子みたいに笑う。 「グレイはユリウスとは違うんでしょう? だったら、連れ出して」 「いや、それとこれとは」 「違わない。春でも夏でも秋でもいいから、グレイの好きな季節に行こうよ」 冬から連れ出して、と笑うとグレイはいつもの大人の表情を取り戻して笑ってくれる。 実に真面目な彼らしい、どこかに理性を据えているグレイ。手を握られて立ち上がったわたしの腰に、手際よくグレイの腕が回された。 「…………どこに連れ攫われても、知らないぞ………?」 囁かれた声は背筋を撫ぜて脳髄を震わせた。わたしは挑むように微笑んで「のぞむところ」と答える。春でも夏でも秋でも、もちろん冬でだって彼は間違いのない場所に連れて行ってくれるだろう。わたしはグレイの連れて行ってくれるところならばどこだって安全だと思っている。 |
悔しいのは届かなくても
色褪せない事だ
(10.05.01)
朱鈴さまに捧げます!