断る理由がなかった。 言い訳のように考えてみるけれど、自分がたった今ほとんど知らない男性と食事を共にしてきた事実の裏づけにはあまりに弱々しい気がした。ピークを過ぎて人通りの少なくなった駅のホームは閑散としていて、が立っているだけで列車が来そうな気配はない。終電を待ちながら、そういえば終電を待つということさえもしばらくぶりだと思いを馳せた。そうしていつのまにか、変なふうに閉鎖的になってしまった自分に気付く。 『あなたはどこか、普通の人と違いますね』 先ほどまで洒落たイタリアンレストランで一緒だった男は、にてらいもなくそう言い放った。フォークとナイフを握りながら返事に窮するに男は、慌てるようにして「もちろんいい意味で」と付け足したのだけれど、一体何が「いい意味」なのかはわからなかった。彼が言うには雰囲気が常人離れしているというか、人に流されない空気を纏っていてそれが心地いいのだという。必死に弁解する彼に、けれどは褒められた通り曖昧な相槌など打てなかったので返事をしなかった。ふたりきりのテーブルの中央で揺れるキャンドルを見つめ、どうしてここで塩パスタなんて食べているんだろうと考えた。これからデザートだって来るのに、もうお腹の中に別のわだかまりが入ってしまったせいでまったく食欲が湧かなかった。 そもそも半ば無理やり友人に紹介されたこの男の、フルネームをは覚えていない。 「よぉ、えらく遅いな」 ぼうとホームを見つめていると、突然隣に立つ気配がした。人がほとんどいないのに傍に寄られたことで反射的に逃げ腰になるが、聞こえた声に驚いた。隣にいたのは誰でもない、小さな黄色い蛙だった。ぐるぐる眼鏡をかけた蛙は口もとに手を添えて、笑う仕草をする。 「クルル? どうしたの」 こんなところで、と続けようとした声は喉の奥で張り付いてしまった。 理由が足りない、とは感じる。なぜクルルがこんな場所に現れたのかということは問題ではなく、がホームに立っている理由が足りない気がした。友人の紹介で一度だけ会った男に電話番号を聞かれて、都合のいい日に食事でもと言われたので頷いた。断るべき理由がなかった。自分が断りたいのかは別として、好きでも嫌いでもない男を無下にできるほど「常人離れ」しているわけではない。 クルルは黄色い線の内側に立って、まるで列車を待っているように並んでいる。は自分もまっすぐ前を向き、彼の問いに答える。 「知人とご飯を食べてきたの」 「知人、ねぇ」 「そう。友人未満だもの。その通りでしょう」 「だがあっちはそう思っちゃいねぇぜぇ」 「なんでそんなことわかるの」 「男の勘」 きっぱりと言い切られたので逆にすがすがしくなり、は笑った。 「なに、それ」 「なんとも思わねぇ奴を誘う男はいねぇってことだ」 「あぁそっか。うん、それならわかる」 「なんだ、脈アリってか?」 「違うよ。それが普通ってこと。わたしは好きでも嫌いでもないからついてきただけだけど、誘う側からしたら理由があるのが普通」 宇宙人に諭されるなんて可笑しな話だが、一般的に見れば男性が異性を誘うのは大なり小なり期待しているということだ。はその期待にはからずも肯定を示したことになる。例えこれから先一切の展望がないのだとしても、は今夜彼と会うことを了承したのだ。 ひどいことだとは思わない。まだ会って間もないわけだし、告白をされたわけでも結婚を申し込まれたわけでもない。ただ何も感じなかったので、まったく展望がないことをそれとなく友人に匂わせなければならないのが億劫だった。 「お前、どっか切り離して考えてんじゃねぇのか?」 どっか、というのはつまり心だ。瞬時に思い至って、その通りだと感心する。 いつだって心を切り離していれば傷つく必要などない。でも心がなければ他の「理由」が欲しくなる。クルルにしたいわけではないが、誰かに聞いて欲しい理由が必要になる。 「断る理由がなかったの」 一度瞳を閉じて、ゆっくりと開けてから答えた。わかっている、と肯定を示したつもりで。 クルルはいつもの馬鹿にするような笑い方をする。 「なんだ、理由があったら断ったのか」 「そう。用事があったり、誰かと約束をしていたり、お腹が痛かったりしたら」 「あとは彼氏がいたら?」 膝くらいまでしかないクルルの背丈を見下ろしながら、は考える。 「そうだね。行っちゃいけないって言う彼氏なら」 「ククッ。言いなりかぁ?」 「違うよ。嫌われたくないから行かないの」 それを言いなりって言うんだよ。 クルルは続けたけれど、は不思議に思う。嫌われたくないのは好意を持っているからで、ひいては自分の為に行動するのにどうして他人から見ると事実はどんどん歪曲していくのだろう。ひどくいやらしく歪んだ思いに、どうして気付けないのだろう。 「じゃあどうして、クルルはここにいるの」 最終電車は来ない。きっとクルルがここに居る限りホームには現れないだろう。の常識を覆すまったくの非常識でクルルはここにいる。 クルルはちらりとこちらを見た。 「馬鹿女を見に来ただけだぜぇ」 「わたし?」 「そうだ。無自覚っつぅのが一番怖ぇんだよ」 「いったい何が」 「いいか。一度しか言わねぇからよく聞けよ」 ちっ、と小さな舌打ちが聞こえた。ホームは恐ろしく静まり返っていて、虫の音も聞こえない。 「…………ムカツいたんだよ」 クルルがここにいる、それが理由。はその手の感情に関して詳しくなかったが鈍感でもなかったので、クルルが言った意味をきちんと理解はしたのだけれど、いかんせん相手が相手だけに混乱する。例えば先ほどの男性が告白したのなら申し訳なさそうに謝ることだって出来たはずなのに、クルルには出来そうになかった。もちろん断る理由がないからだ。特段の理由。 でもそれだけではないことも、は知っている。 「クルルは束縛、するの?」 「するねぇ。独占欲がねぇように見えるか?」 「自己顕示欲のかたまりには見える」 「………幸せにするとは間違っても言わねぇな」 「うわ、今寒気した」 「てめぇ」 「うそうそ。でもさ、それがクルルらしい」 肯定すればどうなるか、わからないほど馬鹿じゃない。 今の今までの頭の片隅にあった、どうしてここに自分がいるのかという疑問符が消えていく。そうして新たな理由がきちんとあるべき場所に収まるのがわかった。 やはり自分のために行動するのが一番自分らしい。 「いいよ。もう他の人とふたりきりでは会わない。クルルに嫌われたくないもの」 好意を無くさないため、繋ぎとめるためにするのなら一番の理由になる。 クルルはやっと楽しそうに笑った。声が一層高くなり、ギロロたちが聞いたらぞっとするような類のものに変わる。けれどは隣で微笑んで、クルルとひとしきり笑いあった。やっと自分の置き場所が見つかったような、ほっとした思いで。 やがて最終電車がホームに滑り込んだとき、そこにひとりと一匹の姿はなかった。 |
瞼の向こうに光が見えた
(10.05.01)
いえろー様に捧げます!