似合うのは夜だろう、と思った。静寂に満ちた廊下を歩きながらユリウスは考える。クローバーの塔の周辺は現在冬で、住人に似つかわしく陰鬱な空気を纏っているけれど一番似合う時間帯というのは昼でも夕方でもなく夜だ。冬の静けさが誇張され、どんどん暗闇は深くなる。この世界では関係のない話なのに、日が出ている時間が随分短い気さえする。ユリウスは夜が好きだった。他の時間帯よりは好むというだけだが、それでも塔の主が静かになるこの時間帯は冬になってから格別だ。


「…………」


ノックもなしに目的のドアを開け、ゆっくりと部屋を見渡す。クローバーの塔のたくさんある客室のひとつに過ぎないはずのそこは、けれどやはり長く住んでいるものの色と言うか個性がにじみ出る。例え部屋の主が病気で寝込んでいる最中だとしても、包む空気は変わらない。ただ加湿器のおかげで適度よりは湿っぽく、かつあたたかに保たれてはいるようだった。
ユリウスは看病をしているはずのアリスがいないことを確認する。大方城に戻ってペーターの相手をさせられているのだろう。の看病につきっきりになるあまりアリスはあのウサギを充分に構えていないので、細々とした用事で帰った折には小言を言われる羽目になる。なぜアリスがあのウサギを選んだかは甚だ疑問だが、それは個人の自由なのでユリウスに言及するつもりはなかった。
定位置と化してしまったベッド脇の椅子に座り、眠るを見つめた。夜の帳が落ちているので小さな灯りだけが頼りだ。浅く呼吸を繰り返す彼女はまだ熱を出しているようだった。


「…………馬鹿だな」


四季が訪れて、いの一番に風邪を引いたのがだった。ナイトメアの体調が悪いことなど日常茶飯事だがそれでも本格的な風邪はひいていなかったというのに、はすぐに風邪をひいた。しかもこじらせたのか、医者の話では肺炎まで併発しかねなかったらしい。ナイトメアはいつもより顔色を悪くさせに外出禁止令を出し、いつもならブレーキをかけるはずのトカゲも同意している。確かに四季に慣れるまでは無闇に飛び出すべきではないとユリウスだって感じてはいるが、この塔に閉じ込めておくことは無理だろう。


「私の塔からも、お前は出て行ったんだからな…………」


正確には引っ越しで弾かれたのだが、それでもユリウスにとっては出て行ったと形容する方が正しい気がする。時計塔の中から彼女が消えて、残された自分は彼女よりずっとこの世界のしくみを理解していたというのにうろたえた。のことだから上手くやるはずだとはわかっていたのに、どうしても消えた女の行方を知りたかった。すぐにナイトメアの元にいることなどわかったが、あのときの焦燥感は思い出したくない。


『ねぇ、ユリウス。今日は何が食べたい?』
『…………いきなり何だ』
『だって、ユリウス部屋に籠もりっきりでしょ。体にいいものでも食べなきゃ体を壊すよ』


可笑しな女だった。自分のものの整理は上手くないくせに、人のものとなるとやりたがった。外に出ようと積極的に誘ってはこないものの、やれ健康のための食生活がどうとかいう話をしだすのでうんざりした。買い物に行けば大きな紙袋に野菜をたくさん抱えてくるので、扉を開けられもしない彼女の気配を察知して開けてやるのが日課になってしまったほどだ。彼女はそういうとき決まって、扉の前で行儀よく待ちながらにっこり笑った。ありがとう、と言うの手から荷物を半分奪って運んでやるとくすくす笑いながら付いてくる。


「…………お前の方が病気になったろう」


引っ越しで離れ離れになり、クローバーの塔での生活を経て、ジョーカーの季節で再び会えた。てっきり帰るものだとばかり思っていたので不思議だった。がそこにいるという事実が、まるで物語のように現実味がない。けれど熱にうなされ眉をしかめながら寝入る女は現実に目の前にいるのだ。


『現実じゃないみたい』


はこの世界を眺めながら、よくそう言っていた。この世界を夢だと思い込んでいるアリスのように自己暗示でもかけているのかと思ったが、違うようだった。いつだってはまっすぐに前を見て、そのくせ何も捉えていなかった。


『信じられないものだから、きっとこれは現実なんだけど』
『なんだ、それは』
『事実は小説より奇なり、って言うでしょ』
『…………信じたくなければ信じなければいいだろう』
『ワンダーランドの住人がそれを言うの?』


決まってクスクス笑い出すは、落ちてきたときよりよっぽど安定していた。ありえないすべてをひっくるめて現実にしてしまったは、だからこそ大まかな意味で安定していたのだろう。否定も肯定もせずにただ事実を固定していたに違いない。


『…………』
『…………何を調べているんだ?』
『あ、ユリウス。病人の料理を勉強してるの。ナイトメアはろくなもの食べてなさそうでしょ』
『芋虫の世話か…………お前もよくやるな』
『その台詞だとキャベツが最良に思えるからやめて。…………あ、ねぇユリウス。このミルク粥って美味しいの?』
『はぁ? …………さぁ。本に載っているくらいだ。うまいんじゃないか』
『洋風のものは今いちわかんないなぁ。まぁ、いいや。玉子酒つくろう』


結局玉子酒を飲んだ夢魔の具合は悪化したような気がする。取り留めのないことなど覚えては居ないが、確かそうだ。玉子酒自体は上手くいったらしいのだが、いかんせんナイトメアは偏食だった。
は料理の本を眺めているのが好きだと言っていた。作っても作らなくても、写真を見ているだけで楽しいと笑った。実験と称して作る料理の大半をユリウスは処理し、そのいちいちに感想を求めるに短く返答してやった。あまりにも取り留めのない、けれど想像もしていなかった生活だ。ユリウスは毎日新しいスナップ写真でも見るようなまぶしさで、を視界に入れた。
そうして今は寝込む彼女を見舞うためにたびたびこの部屋を訪れている。タオルを変えてやる甲斐甲斐しさなどないが、それでもなんとなく足を運んでしまう。


「信じられないから、これは現実…………か」


当たっているようで極論すぎる、けれどの出した紛れもない答えがそこにあるような気がした。夢だと思い込むには現実的すぎたのだろうし、にとって信じるに足りる要素があったのも確かだ。自分の声ですら大きく聞こえる部屋で、ユリウスはしばらく考えてから立ち上がる。出て行こうときびすを返す前に立ち止まり、考えてからの額に指をすべりこませた。手のひらより高い体温が、渇いた自分の手にしっとりと馴染む。ユリウスの手が冷たかったのか、の頬がいくらか緩んだ。


「…………危機感というものがないのか、お前は」


今だって死にそうなくせに、と付け足して今度こそユリウスは部屋を出た。
冷たい廊下に出ると、ちょうどアリスが戻ってきたところらしく目が合った。氷枕を抱え、いぶかしむようにユリウスを見ている。


「アリス、私は少し出てくる」


あいさつもせずに言うが、アリスは気にしたふうでもなく頷く。ユリウスがただの見舞いにくるのはいつものことだ。本当に、を見ているだけで何もしない。


「そう。仕事かしら」
「いいや。買い物に、な」
「買い物?」
「あぁ…………あいにく、私の部屋には牛乳がない」


それだけ言い置くとさっさと歩いていってしまうユリウスの背中を見送りながら、牛乳がないからなんだと言うんだ、とアリスは疑問に思う。ユリウスの部屋に生鮮食品がないことなど生活習慣を見れば一目瞭然だろう。考えるのも面倒になったアリスがの部屋に戻ってから数時間帯後、ミルク粥を抱えてやってきたユリウスに驚くのは後の話しだ。なぜミルク粥なのか最後まで頑としてユリウスは言わなかったけれど、それだけで明瞭に答えを語っているようだった。がユリウスに何が食べたいかと言い募ったように、ユリウスも彼女の望むことをしてやりたかった。それだけだ。






















(10.05.01)









哀川 奈々さまに捧げます!