そこには、なにもなかった。 場所はさまざまであったし、そこにはわたしが言うように何もないわけではなく生活に支障がないだけの家財道具やその他のものがあったはずなのだけれど、決まって感じるのは空虚感だけだった。まさに何もない、と言えるだけの虚しさが目の前に広がっている。 まず初めにそこは教室だった。机が整然と立ち並び、わたしはその中央の机に座っている。ひんやりとした木の感触が、制服の下から覗く太ももに伝わってくる。わたしはただ前を見て、その光景に慣れるのをじっと待つ。知っている教室は、誰もいないだけでひどく居心地が悪い。黒板は圧迫するかのように巨大だし、第一机の並び方が整いすぎて追い詰められるようだった。わたしは自分自身の手で口を塞ぐ。突然、言い知れぬ恐怖が心を支配したからだ。立ち上がってどこかに逃げようとしたけれど、足がもつれて上手く歩けさえしなかった。 怖い。なくしてしまったのは、誰でもないわたしだった。 「何も、ない」 次にまぶたを開けると、慣れ親しんだ自分の部屋が視界に映る。 わたしは自室の中央に立ちすくんでいる。自分の口を手で押さえるという、まるで恐怖映画のヒロインさながらの格好だった。わたしは瞳を忙しなく動かし、自分が配置した数々の私物を―――本棚の位置、開いたままのパソコン、使いやすいように改造した引き出し―――見る。けれどそのどこにも、わたしのものである痕跡が見当たらなかった。 目に見える変化が、それらすべてに満ちている。すべてに拒絶されているのだ。 お前はだれだ、と無機物である彼らに問われてわたしは戸惑う。とんでもない事態だ。わたしはわたしの存在を、この世界からなくしてしまった。唇からは絶え間なく悲鳴に似た嗚咽が漏れていたけれど、どうにかそれ以上の声は出さないように耐えた。誰だ。問いかけというよりは、非難に近いそれは止まない。 わたしはその場でしゃがみこんでしまう。取り返しのつかない事態を招いてしまったことは知っていた。この世界から、人をひとり消したのだ。つまりは自分自身で、自分を殺したことに他ならない。それは例え自分自身であっても、罪であることは理解していた。 『…………』 何もない部屋の中に、わたしのものではない声が響いた。わたしはぱっと瞳を開けて、驚いたように天井を仰ぐ。そこがリビングであっても教室であっても、自室であったとしても必ず驚いてしまう。驚いて上を見上げて、やっとその虚無感の名前を知るのだ。 「…………」 本物の目を開けると、クローバーの塔独特の色彩を持った天井が広がっている。夜だというのに薄く明かりが漏れているのは、外が随分明るいからだった。時間帯のあいまいなこの世界は、だから人々の生活する速度もばらばらだ。 「大丈夫か、」 のろのろと半身を起こすと、隣に見知った顔があった。暗がりだということを踏まえても血色の悪い顔をしたその男は、まるで当たり前のような顔をして尋ねる。手にハンカチを持ったまま、大丈夫か、と。 「大丈夫、じゃない」 「正直だな」 「大丈夫じゃないから、ナイトメアが来てくれたんでしょう」 額を押さえ、呻くように呟く。こうやって悪夢を見た折に、ナイトメアは現れた。悪い夢を見てうなされるたびに、目を覚ますと彼がいる。はじめは現実と夢の区別がつかなかったのでナイトメアがいることに違和感を持てなかった。戻ってきた、と心のどこかで安心していたからだ。けれど、次の瞬間には冷静に分析する自分がいる。 「部屋に入ってこないでって言ったのに…………」 「それはできない。君が助けを求めているのに、私に無視をしろと言うのか?」 「できれば、そうして欲しい」 大きく溜め息を吐くと、一緒にひどく力が抜けた。あの夢はひどく体力を消耗させられる。 「…………疲れているな」 「夢で疲れるっていうのも、おかしな話だけどね」 「何も可笑しくはないさ。君は夢に、それだけ重きを置いているんだ」 今度はナイトメアが嘆息する番だ。ちらり、と彼の薄紫の瞳がベッドサイドのテーブルに移される。 「私に部屋に入られたくないというのなら、時計屋の歯車をなぜ外す? 言っただろう。この歯車は時計屋の力が込められていると。私ほどでなくとも、君に悪夢を寄せ付けないくらいはできる」 銀色に光る歯車が、頷くように瞬いた。わたしは膝を抱えるようにして座りながら、首を振る。それでは意味がないのだ。 「…………ユリウスに守ってもらうだけじゃ駄目だもの。これは、わたしの越えなければ問題でしょう」 「何もない部屋、誰もいない教室が?」 「そうよ。そこには、わたしの大切だったものが何一つないもの」 もちろん自分に与えられた机に愛着がなかったわけではない。両親に買ってもらったベッドも本棚も、パソコンや絨毯に至るまで全部が大切だった。でも、そこには決定的に欠けているものがある。 「どうして大切だったのかなんて、言わなくてもわかるでしょう?」 歯車をつけていないから、ナイトメアにはすべて理解されているはずだった。 わたしは何よりも自分を慈しんでくれる周囲の人々が大切だったのだ。たとえどんなに孤独を感じようとも、あの世界を見限れなかったのはその人々がいたからだ。わたしの望んだ愛情ではないにしろ、両親や友人をないがしろにしたわけではない。 「…………君は自分を責めているんだな」 アリスと同じだ、とナイトメアがひどく落ち着いた口調で促す。 同じだ、なんて小さな括りでひとまとめにしないで欲しい。わたしはひどく身勝手な思いで、悪夢を見ているのだ。わたしのいなくなったあとの世界で、可哀想な両親や友人を思って居たたまれなくなっているに過ぎない。わたしがあの人たちを大切であったように、相手にとってもわたしは大なり小なり大切であったはずなのだ。少なくとも、テレビのニュースで聞く悲惨な事実よりも実感を伴っている。 「…………子どもがいなくなった両親はどれくらい悲しいのかな」 「わからないな…………だが、相当だろう」 「やりきれないよね。苦しいよね。…………わたしがここで、ちゃんと無事だってことを伝えて上げられたらいいのに」 できないことを知っていて、わたしはいつもナイトメアを困らせる。 そして言ったあとで、笑ってしまうほど愚かな自分を知るのだ。立ち向かうといったのに、ひどく弱々しくなった自分自身を見つけて笑うのだ。 「ごめん。でも、だから来て欲しくないの。ナイトメアに八つ当たりしちゃうでしょ」 「あぁ」 「わたしが面と向き合って、いつか解決しなくちゃいけない問題だから…………ナイトメアまで付き合う必要ないよ」 怖いのならばとっくの昔にユリウスの歯車を身につけているし、それでも駄目ならアリスの元に走っている。まだ大丈夫なのだ、と自分に言い聞かせるたびにくじけそうになるけれど。 ナイトメアはしばらく彼にしては無表情な瞳でわたしを見つめてから、ぽんぽんと頭をなでた。 「なんと言われようと付き合う。私は君の上司だぞ? 上司は部下の心配をするものだ」 「…………いつもは心配されっぱなしのくせに」 「だから、たまには心配させてくれ。私は君の邪魔をしていないだろう?」 確かにナイトメアの言い分ももっともだった。彼はわたしを無理やり起こすことをしなかったし、夢の中に現れたりもしない。ただ立ちすくんでしゃがみこむと、静かに声をかけてくれる。 わたしは膝を抱えながら笑う。 「駄目上司なのに、どうしてこう我侭なのかな」 「駄目は余計だ、駄目は」 「あぁ、駄目上司だから我侭なのかな」 「…………いい加減、私も不貞腐れるぞ」 ごめんごめん、と心を込めずに呟く。呪文みたいに。 「それで、不貞腐れた上司さんはもう部屋を出て行ってくれるの?」 「…………君が寝ていないんだ。まだここにいるさ」 「あのね、寝るまでいなくても大丈夫だから。部屋にいるってだけでアリスから変態扱いされたでしょう?」 つい先日、この事態を説明すると間髪いれずにアリスは言った。まばたきすらせずに一息に、「変態」と。 「…………あれは、堪えた」 「だからもう出て行ってよ。わたし、嘘はつけないもの」 「だが」 「あのね、わたしだって感謝してないわけじゃないの。…………ただ、これが常態化するのが嫌なの」 いつかそれは普通になって、待っている自分がいるようになったらどうすればいいのだろう。助けるための手はくるのだから、だなんて安心してしまっては意味がない。 ナイトメアは本当に、わたしに甘すぎるのだ。 「何度だって、私は来るぞ」 「いや、疑ってるわけでもなくて…………」 「君はそう言っても、どうせ答えを出すまで悪夢を繰り返すんだろう? 私は邪魔をする気はないが夢には入れないのだから、心配になれば部屋に入るしかない」 だから、とナイトメアは細く頼りない指先をわたしの頬に滑らせる。 「君は安心して立ち向かうといい。私はここにいて、夢から掬い上げて見せよう」 「だから、部屋に入るのも許せって?」 「許さなくてもいいさ。私はこの塔ならどの部屋にだって自由に行き来できる」 つまり、わたしが折れない限り不法侵入を繰り返すつもりらしい。 ひんやりとした手はやはり健康的な男性のものではないけれど、気持ちよかった。わたしはその手に顔を傾けながら、ゆるゆると訪れた眠りに身を任せる。夢魔の眠りは抗いがたい力を持っている。 「…………仕方ないなぁ」 アリスに変態扱いされて涙目になっていた男とは思えない逞しさだ。わたしは観念してあげることにした。この世界でこの人の我侭を受け止めてあげる人間は、きっとグレイひとりだけでは足りないだろうから。 いよいよまぶたが開けられなくなり、体の自由はまったくきかなくなる。海の底に沈むように、深く眠りにつくわたしにかすかにナイトメアの声が響いた。ひどく怪しくそのくせ優しい、夢魔らしい声だった。 「ありがとう。…………ゆっくりおやすみ」 |
エスプレッソの底で溶けない砂糖
(09・10・25)