「ねぇ、ナイトメア。グレイにお休みをあげましょう」 目の前に広がる光景を見ながら、わたしは目眩を覚える。隣に座ったナイトメアは聞いているのかいないのか、わたしのように間の抜けた顔をして真っ直ぐ前を見ていた。その視線の先、彼の腹心中の腹心であるグレイはその手の中にあるものに夢中だ。 グレイの長い指先が覆うのは、小さなクジラだった。頭部のところどころにコケの生えた、可愛らしいがどこか生々しいクジラは動いている。もがくというよりはまるで擦り寄るような動きに、目眩が増しそうになった。 「手乗りクジラ…………?」 「いや、これは花クジラと言うんだ」 コケから生え出した小さな花は、なるほど可憐で美しい。そこからの異名であるのなら納得しようと一度頭を抱えたわたしは、クジラを大事そうに抱えるグレイを見つめた。見たこともないほど笑顔を浮かべた彼は、じっと花クジラを凝視している。周囲にハートでも飛び散らさんばかりの勢いに気圧される。 「…………可愛い」 ぼそり。グレイが呟いた声は小さかったが、あまりにもダイレクトにわたしとナイトメアを襲う。 「ナイトメア。やっぱりグレイにお休みをあげましょう。絶対、癒しが足りていないの」 「癒し? あれは癒しなのか?」 「癒しに決まっているでしょう! ストレスが溜まりすぎてるのも問題かもしれないし…………。まぁ問題の大半は、ナイトメアだけれど」 「私が問題か…………」 「…………とにかく仕事してあげなさい。グレイは、わたしがなんとかするから」 ほら、と書類を持たせると渋々彼は部屋を出て行く。その頼りない背中を見ながら、時間帯が変わる頃に様子を見にいかなければと考えた。彼は集中力を持続させるのがとても困難な人だ。 さて。腰に手を当てて、グレイに向き直る。花クジラを大事そうに抱えた彼は、きゅいきゅいと謎の声をあげる小動物から視線を外そうとしない。 「それも、クジラっぽいものよね? 水…………というか土の中に入れなくても平気なの?」 「あぁ…………ハナちゃんは平気だ」 「ハ、ハナちゃん?」 「花クジラだから、ハナちゃん」 夢見る声音に、わたしはもうどうしていいかわからない。いっそこのままグレイごとお花畑に放り出しておけば勝手に回復してくれるんじゃないだろうか。 きゅいきゅい。訴える言葉はまったくわからなかったけれど、高い声は愛玩動物に相応しく可憐だ。 「グレイ、ハナちゃんを飼うの?」 これだけ溺愛しているのだから、部屋に持ち帰るなりしてしまいそうだ。グレイは世話を怠らないだろうし、立派なブリーダーになれる気がする。けれどグレイは力なく首を振る。 「駄目だ。世界が安定すれば、ハナちゃんも帰らなくてはいけない」 「帰る?」 「そう。あるべき場所、元の場所へ…………。前にナイトメア様が言っていた。森クジラの鳴き声は、帰りたいと言っているそうだ」 その話なら聞いたことがある。森を横断するあのクジラの高く悲鳴じみた声は耳を離れない。帰りたい。帰る道はどこ。彼らがこの世界の引っ越しの一番の被害者だ。世界の歪みに翻弄される彼らは、けれど時期がくれば帰れるらしい。 「じゃあ、この子も帰るのね」 「あぁ。仕方のないことだ」 「…………グレイは優しいね」 悲しそうな彼に精一杯の慰めを込める。グレイは無理やり手中に収めてしまわない。きっと帰れなかった花クジラの末路を知っているのだろう。私利私欲にブレーキのきく人というのは、多分驚くほど少ない。 「俺が…………優しい?」 低く穏やかで夢見がちだった口調が、突然固くなった。わたしは不思議に思ってグレイの顔を覗く。グレイは変わらずに笑っていたけれど、花クジラを見ていたときとは違う雰囲気を纏っていた。例えるのならば、それは捕食者の瞳だ。 「俺は優しくない。君の勘違いだ」 「そんなことはないと思うけれど…………」 「だとすれば、君がこちら側の人間であるからということになる。俺は誰にでも優しいなんて、器用なことはできないよ」 その手にあった花クジラをわたしに預け、グレイはまだ笑っている。けれどその瞳は、もう違う色を宿してしまっていた。 「花クジラは、引っ越しをすれば見ることのできる生き物だ。さして珍しいものでもない。だから帰してやるに過ぎない」 「…………そう」 さして珍しいものでもない。抱えたクジラは、きちんと重かった。まるでぬいぐるみのようであったから、その重さに少しだけ唖然とさせられる。これは生き物だ。 珍しくなくとも、この世界の住人のように顔がないわけではない。戻りたいと鳴くクジラは、誰よりもわたしに近い生き物だった。グレイの言い方は、まるで珍しくなければ逃がしはしないと言っているようだった。わたしは彼の目を見るのが一瞬怖くなり、瞳を逸らしてしまった。 「だから君は帰さない」 声と同時にわたしの視界を黒いものがふわりと覆った。後頭部に回された手と、腰に回された手がしっかりとわたしの位置を固定する。花クジラがきゅいと鳴いて、彼も相当苦しいことがわかった。わたしはグレイに抱きしめられている。 「グ、グレイ?」 「…………ん」 「いや、状況がよくわからないんだけど」 丁度わたしの額が彼の唇にぶつかっているらしい。グレイが話すたびに前髪が揺れて、くすぐったい。ちゃんと加減をして抱いてくれているグレイのおかげでなんとか花クジラは無事のようだ。きゅいきゅい。わたし達の間で平和なのは彼だけのようだった。 「君はここにいると言ったが、帰ることもできるんだろう。だから、俺は君の戻る道をすべて塞ぎたい」 「…………そんなにわたしは信用がないの?」 「信用はしている。だが、何かの拍子にうっかり帰られたりしたら目も当てられない」 「うっかり…………もしかして、おっちょこちょいだって言いたいの」 「そうじゃあない。それだけ君が大切で、怖いんだ」 まったく要領を得ないことを言うグレイは、先ほどと同じようにぼんやりとした口調になる。頭と腰の腕はびくともしないというのに、意識だけは先ほどと同じように夢見がちだった。 「癒してくれ。…………休暇なんて、いらないから」 だがぼんやりしていてもグレイはグレイだった。わたしとナイトメアの会話を聞いていたらしい。わたしは彼の腕の中で花クジラと視線を合わせながら、少しだけ肩を竦めた。わたしは愛玩動物ではないし、こんなふうに可愛らしく鳴けない。 仕方がないので花クジラを抱えなおし、両手でしっかりと胴体を固定させるとふいにグレイの顔に近づけた。驚いたグレイが逃げるよりも早く、その頬にクジラがキスをする。 「ハナちゃんのキッス」 「…………」 「あれ? 駄目?」 言葉をなくして平たい瞳を向けるグレイに情けなく笑う。どうやら癒されなかったらしい。 駄目だったね、だなんて花クジラに語りかけると、クジラの方でも呆れるような瞳でわたしを見ていた。なんだか物凄く居たたまれない。 「…………癒しというのは」 グレイの、声。ついで軽い感触が、右頬にぶつかった。瞳をそちらに向ければ、間近にあった綺麗な黄土色の瞳とかち合う。深いその色が綺麗すぎて声が出ず、あやうく花クジラを落としてしまうところだった。けれどグレイの長い指がまた花クジラを攫っていったので、愛玩動物は床にダイブすることはない。 「こういうことを言うんだ」 「…………勉強にならない」 「そうか? まぁいい。俺は随分癒された」 ナイトメア様のところに行こう。 グレイがいつものように微笑んで片腕を差し出してくれる。もう片方の手には花クジラを抱えたままだ。わたしは肩の力を抜いて、グレイの癒しに付き合ってあげることにした。手を繋いだままでナイトメアの部屋に向かったら、彼にも先ほどと同じことをしてみよう。花クジラのキッスは多分、お気に召さないと思うけれどグレイは笑ってくれるに違いない。 |
確かに君がいるなら、
あえて言葉を尽くす必要はない
(09.10.25)