「やめて」 今日で一体何度目になるのだろう。わたしは繰り返し言い募りながら、もう半分の脳みそで考える。何度言ったとしても目の前の男は聞いていないのだろうということはわかっていた。わたしの声も、考えも、きっと及ばない。 「。どうしてそんなヤツのこと庇うんだ?」 いかにも理解できないと言ったふうに肩を竦めるエースの表情は読めない。わたしの背後にいるピアスは怯えて震えている。ピアスは正しくこの騎士の恐ろしさをわかっているのだろう。笑顔で剣を向けるこの騎士は、わたしの話を聞いていない。 ため息をひとつ、聞こえるように零す。 「往来で剣を抜かないで」 「でも、俺って運が悪いんだ。ネズミくんになかなか会えないから、こうやって会えたとき始末しないと」 ちゃき。剣を構えるとき特有の音が、ピアスの悲鳴と一緒に聞こえた。わたしは町中で剣を抜き放ち今にも飛び掛らんばかりの構えをする男に苛立ちを覚える。エースがピアスを狙う理由は、わからないでもない。死体を隠してしまうピアスの存在は、確かに時計の回収を遅らせてしまうだろう。ユリウスの仕事にも支障をきたすかもしれない。けれど、だからといってピアスが殺されていい理由などにはならない。 「とにかく、やめて」 「…………なんか、最近そればっかじゃないか? 」 「あら、覚えてたの。そうだよ。ディーとダムと戦っていたときに言ったし、旅に連れて行かれそうになったときも言った。やめてって」 てっきり覚えていないだろうと思っていたので、わたしは少なからず驚く。双子といつものように斬り付け合っていたエースは微笑みながら彼らを劣勢に追い込んでいたし、旅に連れて行かれそうになったのも迷惑だった。わたしは声をあげ、彼に届くように心を込めたつもりだった。やめて。双子は怪我をしていたし、わたしは旅に出るつもりなどない。 「…………でも、どっちも聞いてくれなかった」 エースは結局双子が武器を離すまで剣を振るい続けたし、アリスが気付いてくれるまで嫌がるわたしを引きずり続けた。やめて。どうしてこの言葉はこの男に届かないのだろう。いっそ不思議にさえ思う。会話は成り立つのだし、彼にだって言い分があるのだろうけれど、どうしても静止の声だけは届かない。 「はは!そうだっけ」 「そう。…………わたしはあなたの上司じゃないし、これは命令じゃないけれど、だからっていつも無視されたら不快だよ」 背後でピアスがおそるおそる顔をだそうとするので止めながら、わたしは言葉を続ける。 この騎士はいったいどこまでが本気なのだろう。ユリウスを友人としているのは間違いないが、その友情が周囲に害を及ぼすほどというのも理解できない。 エースは束の間考えるように顎に手をあてる。それからお手上げだというポーズをとった。 「無視してるわけじゃないんだぜ? ただ、はいつも俺のすることに反対する」 「目の前で友達を斬ろうとされれば誰だって反対するよ」 「友達…………友達か。に友達が多いのが問題なのかな」 「はぁ? 思春期の娘を持つ父親みたいなこと言わないで。…………確かに敵対関係にあるあなた達に強要できるものじゃないってことはわかるけど、せめて時と場所を考えて」 「つまり、君の目に届くところじゃなければいいんだ?」 「今度は揚げ足とりね。…………わたしはピアスが斬られようとすれば、いつだって同じことを言うよ」 剣を向けられているというのにちっとも怖くなかった。エースは未だに少しだけ不安定だ。 いつものようにからからと意味もなく笑っていたとしても、彼は微妙にずれている。 「それは困ったな」 ちっとも困っていないのに、エースは嘘を言う。彼の言葉は全部が現実味のない真実だった。どこか別の世界で起きているものを見ているかのような、フィルター越しの会話。 いつ無くしてしまったのかなんてわからないし、最初からないのかもしれないけれど、エースに欠けた部分をあげられればよかったのに、と思う。それか欠けた部分を補ってしまえる何かを、持っていたらよかった。 わたしとエースは一言も話さず見詰め合っていた。にらみ合っているというよりは、不思議なものをお互いに見るような感覚だ。やがて鋼のこすりあう音がして、エースが剣を納めた。 「…………仕方ないな。今日だけは見逃してあげるよ」 「エース」 「あーあ。これじゃ職務怠慢でユリウスに怒られちゃうぜ」 きちんと剣が腰にぶらさがったのを見て、わたしはピアスを逃がした。彼はいつものゆるゆるとした空気からは想像もできないほど素早く駆け出す。 わたしは笑って彼に一歩近寄った。剣先が届いた距離を簡単に縮める。 「ありがとう。やっと聞いてくれた」 「…………仕方ないよ。君ごと斬るわけにいかないしさ」 やれやれと頭を掻くエースは、穏やかで常識人のようだった。欠けたところなどどこにもないような、まったくの別人。 静止の声が届かない場所から帰ってきてくれてよかった、と心の底から思う。 「じゃあ、口止め料ってことでご飯を奢らせてもらえる?」 「え?」 「それくらいの賄賂もらってもわからないよ。美味しいご飯食べたら、エースは忘れてくれるでしょう?」 にっこりと微笑むと、エースは瞬間ぽかんとした。けれど次には笑い声も爽やかに噴き出す。はっははは!なんとも楽しそうな笑い声だった。 「賄賂か。いいな、それ。いかにも悪いことって感じだ」 「悪いことであるかは見解の相違だけどね。少なくとも、エースにとってはお仕事だろうし」 「…………いいな。それ、いい。ユリウスが聞いたら頭抱えそうなところが、特に」 結局ユリウスのところに逆戻りしてしまう騎士は、しばらく笑っていた。笑いがおさまるのを待って、わたしは彼にしっかりと言い含める。わたしの知っているお店に行くから、迷ったりしたら承知しないと。 「じゃあさ、ちゃんとエスコートしてくれよ」 「…………エスコートされなきゃ付いてこれないの」 「だってどこにだって面白そうなものは転がってるだろ? さっき逃がしたネズミくんを偶然見つけちゃうかもしれない」 言いながら、エースの瞳は面白そうに歪んでいく。これでは悪者はどちらだかわからない。 「わかった。じゃあ、紐でしばって連れていく」 「はは! って意外とバイオレンスだな」 「冗談に決まってるでしょ。…………もう」 くだらない上に終わりの見えない会話を切り上げて、わたしはさっさとエースの左手を掴んだ。そのまま歩き出したわたしの背後で、騎士がとろとろと歩き始める。 手袋越しでも大きなエースの手のひらは握り返してもらわなければ、掴むこともままならない。もうどちらが捕まえているのかわからない。 「あ、そうだ。」 「なに」 「できれば今日の料理はウサギ肉を使うところにしよう。さっきペーターさんとアリスと、そんな話をしててさ」 ウサギを交えてなぜウサギ肉の話になるのだろう。いったいどれだけ混沌とした会話なのだ、と胸中でつっこんでから渾身の力を込めてわたしは答える。ペーターを考えながらウサギ肉だなんて笑えない。 「やめて頂戴」 しっかりと断ったはずなのに、わたしの声は存外弱々しくなってしまった。多分疲れてしまったのだろう。エースとの会話はいつもそうだ。終わりが見えないし、とても疲れる。だけれど、嫌いではない。わたしは笑って背後を振り返って、ついてきているエースとしっかり目をあわせる。ビー玉みたいに澄んだ、まったく理解できない彼の目は相変わらず笑っている。 |
無垢なる蜘蛛の巣
(09.10.25)