メレンゲのあわ立て作業は心が安らぐ、とは思う。ステンレスのボウルにたっぷり卵白を投げ入れ、大き目の泡だて器を握りなおすと奮い立つように感じてしっかりと立つことができるし、なにより中々の力仕事なのだ。無心に力いっぱい泡だて器をかき混ぜるのは、他のことを考えなくていい。 白くもったりするメレンゲを作るのはケーキの生地の出来を大きく作用する。だからできるだけ丁寧にするようにしていた。丁寧に、かつ自分の筋力の続く限り。混ぜている間は片時もボウルから目が離せないので、いつのまにか白い空気の中にいるような気になってしまう。わたしはぐるぐる回るボウルの中で、どんどん膨張していく。 「………?」 たぶん、何度も声をかけてくれていたのかもしれないがが気づいたのはそのときが始めだった。はっとして顔をあげると目の前に大きな壁が立ちふさがっている。驚いて目をしばたたかせると、その壁は徐々に見知った人物になる。大柄な体躯をもつ彼は、心配そうに眉を下げたままわたしを覗き込んでいる。 「エリオット」 名前を口にしてみて、ようやく実感がこもった。小麦色のウサギ耳を揺らしながら、エリオットはまだ不安そうな顔をしている。わたしは重たくなったボウルと麻痺し始めていた右腕から泡だて器を離す。ついで、にっこりと笑って見せた。 「ごめんなさい。気づかなくて」 「いや、いいけどよ」 何度も呼んだとか、聞こえなかったのか、とエリオットは言わない。言い訳の嫌いな人種なのだ。わたしはだから、エリオットには極力嘘をつかないようにしている。優しい嘘は別として。 エリオットは変わらず眉を下げたまま、わたしの顔を凝視している。さすがにわたしは首を傾げた。 「なに? メレンゲでもついてる?」 「いや………」 彼にしては歯切れの悪い返事だった。エースとは違い、自然体で快活なウサギの明るさはたぶんこの世界の中でもとびきり素直だ。だから、その笑顔が見られないのは少し寂しい。 どう言葉をつなげようか考えていたに、やおらエリオットの手が伸びた。ゆっくりであったし嫌だったら跳ね除けられたのだが、あまりにも心配そうなエリオットの顔のせいでは身じろぎすらせずにそれを向かえる。大きくてしっかりとした手は、頬をぎこちなく撫でた。怯えるような、手つきだ。 「………………なんで泣いてたか、聞いていいか?」 言われたことが理解できず、は大きく目を見開く。けれどゆっくり離れた彼の指が濡れていたのと、自分で触った頬がしっとりとしていたのでそれが涙のせいだとようやくわかった。この分では涙の跡がくっきりと残っていることだろう。 エリオットはすごく真剣な顔をして、の言葉を待っている。けれどそれがあまりにも予想外であったために、咄嗟に嘘をつくこともできなかった。本当に何でもなかった。無心に泡だて器を使い、腕が痛かっただけだ。 「……………ごめん。わたしも、なんでかわからない」 「本当か?」 「本当。………………悲しい夢を見ていたわけでもないし、何かを考えていたわけでもないし。嫌だなぁ、涙腺が壊れちゃったのかも」 知らないうちに泣いていたなんて、どうしようもない。まさか泡だて器を握りながら寝ていたわけでもないだろうと疑ってみるが、悲しい夢の記憶もなかった。確かに最近夢見は悪いけれど、それだって自分のせいだ。体に不調は見られないし、今だって好きでやっているお菓子作りの最中のはずだった。 エリオットは納得できないように眉間に皴を寄せる。 「でも、アンタが泣くなんてよっぽどだろ。知らないとこで無理してるんじゃねぇのか?」 「無理なんてしてないよ。仕事だって力量以上のことはしてないし、こうやって趣味までできてるし」 グレイは教え方が上手くて丁寧だし、ナイトメアはまったく面倒見がいがある人だった。優しい上司たちに恵まれていると言っていい。それにこうやってわたしのお菓子を待ち望んでくれる人もいるのだ。 はいつものようにエリオットのためのキャロットケーキを作っている最中だった。彼の許可を得られれば帽子屋屋敷の厨房は自由に使える。調理器具も材料もそろったここは、趣味のために使うには憚られるほど立派だ。メイドは手伝おうと言ってくれたけれど、毎度それを断って全部自分で作り上げるのも御馴染みになっていた。 何不自由なく、わたしは暮らしている。屋根のある部屋で寝ることができて、大好きな友人が傍にいる。困ったこともおきるけれど、それすらも内包して幸せだと感じられる。 は首を傾げる。今更泣く必要などどこにもない。 「本当に、なんでだろう」 「……………もし」 「うん?」 エリオットは言いにくそうに視線をはずす。それから面白くなそうに呟いた。 「もし、あんたが時計屋に会えないせいで泣いてるんなら、俺は慰められないぜ」 「え………………いや」 「ここに残ってくれたのはすげぇ嬉しい。でも、それがアイツのためだなんて………………俺は嫌だ。ブラッドなら仕方ねぇって諦められるけどよ」 ぶつぶつ呟くエリオットは尚も言い募っていたけれど、はその顔をぽかんとして見つめた。すげぇ嬉しい。いい大人の男が――たとえ、それがウサギだとしても――あきらかに小娘であるに言う言葉ではない。綺麗だ、なんていわれるよりよっぽど嬉しい。 だいたい、ユリウスを思い浮かべて泣くほど幼稚ではない。彼の前でしか泣いたことなどなかったから意外ではあったけど、彼を思いだして悲しがる要素がなかった。 は頬を拭って、笑う。エリオットが安心できるように。 「今更ユリウスのことで泣いたりしないから、大丈夫」 「そうか? ………………でもよ」 「ん?」 「じゃあ、なんではここに居てくれるんだ?」 素直なウサギは、本当のことしか口にしない。居てくれる、だなんてまるでその価値があるかのような言い方だ。望まれていることが、当たり前みたいな言い方。 「わたしが居たいから、居るの」 「居たいから?」 「そう。わたしはしたいことしかしないもの。エリオットのためにお菓子を作りたいから腕が痛くなってもメレンゲを泡立てるんだし」 すりおろしたニンジンはすでに下ごしらえも済んでいる。きっとブラッドはお茶会に参加しないだろう。双子はお腹が空いていれば加わるかもしれないし、お菓子を持参するかもしれない。は両手一杯に抱えたニンジンのお菓子――キャロットケーキ、ニンジンを練りこんだクッキー、それにニンジンをたっぷり混ぜ込んだシャーベット――をテーブルに広げて、目を輝かせるエリオットに贈るのだ。彼はきっと綺麗にたいらげてくれる。どんな量であろうとものともせず、始終笑顔を浮かべて気持ちがいいくらいの食べっぷりを見せてくれるに違いない。 「………………なんか、それ、俺ばっかり嬉しくねぇか?」 エリオットが子供みたいに頼りなく言うので、笑ってしまう。大きな手での右腕をさすりながら、「こんなに細いのに」とまで言うので可笑しくてたまらない。大柄なエリオットに比べれば、大抵の女性はか細いだろう。 くすくす笑うに、ようやくエリオットは笑う。 「は笑ってるのが一番いいな」 「泣き顔が一番、だなんて言われなくてよかった」 「いや、泣き顔なんて始めて見たからびっくりしたけどよ。でもやっぱ、笑ってる顔のほうが好きだ」 言うなり、エリオットの大きな身体がのほうに傾いて恭しくかぶさる。整った顔が近づいて思わず目を瞑ると、薄いまぶたに熱が降りてきた。両方のまぶたにきちんと一回ずつキスをして、エリオットは離れる。 「だから壊れた涙腺は、俺が治してやるよ。いつだって、な」 本気なのかそうでないのか。いや、比喩でも何でもなくこのウサギ耳の男は本気に違いない。は頬が赤くなってしまうのを理解しながら、けれど自分が笑っていいのか怒るべきなのか判断つかずに困ったような顔をしてしまった。 エリオットの優しさは糖分が多すぎて、どうしても飽和状態になってしまうのだ。溶け出せない砂糖に戸惑うは、余った分でとびきりのお菓子を作る。彼の優しさの詰まったお菓子は、だから驚くほど甘い。 |
劇薬のように甘い致死量
(09.10.25)