灰色だ。
わたしは空を見上げながら、あまりにももっともな感想を持つ。見る限り、すべてが灰色の景色だった。ビルや看板、空自体も灰色の気配を纏い、事実すべてがうっすらと灰色のフィルター越しで作られている。飛行機から降り立ち、空港を出てすぐにこんな景色を見せられてはこの旅の意義を考え直さなければならないだろう。わたしは気分転換にこの国に出かけたのであって、病気になりにきたわけではない。


「あ、!ようやく来たアルね」


ボストンバックひとつきりを持って、途方に暮れているわたしに明るい声がかけられた。声は明るいままの足取りでわたしの傍までくる。それから灰色の背景には似合わない笑顔で笑った。すっぽりと腕を覆う服を着た彼は、見た目は大変可愛らしい青年だ。


「こんにちは、耀さん。お招きありがとうございます」
「堅苦しいあいさつは抜きにするよろし。を待っていたせいでお腹減ったあるよー」


飛行機は予定通りについたというのに、彼は文句を言う。わたしはボストンバックを握りなおして笑った。仕事に疲れて体を休めたいと言ったとき、有無を言わさず目の前の男はチケットを寄越した。座席も日程も決められた飛行機のチケットを握りしめて、あのときわたしは少しだけ救われた気持ちになったことを覚えている。
例え灰色の空の下でも、彼は太陽みたいに笑う。


「さっさと出発するアル。、荷物貸すよろし」


ひょいと奪われたボストンバックは宙を舞うように彼と共に遠ざかる。急いで追いかければ気付いた彼が静かに笑った。余裕たっぷりの瞳は、わたしを映している。


、子どもみたいネ」
「…………実際、あなたから見れば随分子どもでしょう」
「拗ねるのはやめるアル。せっかく、我と一緒にいるのに」


耀はくすくすと笑いながら、もう片方の手で今度はわたしの手を奪う。体温の低い彼の手は、そのせいで細部まで肌の触感を伝えてくれる。指の腹がやんわりとわたしの手の甲をなぞる様子も。


「…………子ども扱い、ですか?」
「違うネ。もうちょっとロマンチックに考えるアル」
「…………ロマン」


チック。声に出すことさえも躊躇われて、わたしはげんなりする。彼のやりたいことがわからなかった。耀さんは本田さんとは違う意味で老成しているので、扱いにも困ることがしばしばある。こうやって手を繋ぎたいと言う彼は、そのうちにあるものを隠しているだけに過ぎない。


「…………似合わないです」


恋人たちのする一般的な出来事全部、わたし達がやるとすべて滑稽だ。わたしの気持ちは恋ではなく、尊敬や畏敬に近いのだろう。わたしが見ている灰色の空も、近代化に忙しい町並みも、すべてが彼であるのだから考えるだけ無駄なのだ。感情のいちいちに名前をつけていたら、たぶん、壊れてしまう。





突然、耀さんが立ち止まったのでわたしも遅れて足を止める。振り返った彼は笑っていなかった。笑っていないくせにちっとも怖くないのは、彼がわたしを責めているのではなく哀れんでいるからだ。
贈られたチケットを握りしめて、喜びと同時に途方に暮れたことを思い出す。あのときすでにわたしは決めていたというのに迷っていた。


「置いてなんていかないから、ちゃんと付いてくるよろし」


手を繋いでいても、ちっとも安心などしないというのに彼は笑う。わたしが生まれたときすでに、あなたは違う場所で生きてきたのに何を言っているのだろう。灰色の空がわたしの心を薄暗く覆っていく。泣きたいのに、泣き出せないのは彼が手を握っているせいだ。それか、飛行機の半券がポケットに入っているせいだろう。
耀さんのくれる言葉はいつだって子ども染みていて、わたしは安心を見失う。絶望を含めた顔で、わたしは笑った。


「でも、わたしは老いていきますよ」


あなたを残して、ひとりきりでさっさと逝ってしまいますよ。
わかってほしくはなかったが、口調は存外非難めいていた。これなら旅行になど来なければよかった。海を隔てた距離に甘んじていれば、不毛な会話も彼の体温も知らずに済んだのに。
耀さんはやっぱり計り知れない表情で、わたしを見ている。すべてを見てきた瞳にわたしを映した彼は、やがて何でもないように笑った。





背丈など変わらないのに、耀さんと並んでたつとわたしはひどく小さい気がする。矮小な自分が嫌でたまらなくなる。それなのに、チケットを握りしめて喜びに飛び上がったわたしはそんなこと思い出せないのだ。
耀さんは最初と同じように余裕を見せて、微笑んだ。


「観念するよろし。帰りのチケットを贈らなかったのは、何のためだと思てるアル」


言われて、はたと気付いた。そういえば帰りの飛行機のチケットが入っていなかった。けれどもちろん自分で買おうと考えていたのだし、彼だってそう考えているのだと思っていた。まさか、と顔が青ざめる。


「我は、置いていかれるのはごめんアルよ」


呟いた彼が心細そうに見えてしまった。わたしは声が出ない。灰色の空にふさがれて、もうどこへも行けない気がしたのは間違いではないだろう。わたしはこの人の罠にまんまと嵌ったのだ。もう故郷に帰ることはできない。少なくとも、彼を諦めていたわたしのままでは、という意味で。
視線をはずして歩き出した耀さんは、まだしっかりと手を握ってくれる。わたしは泣けばいいのか笑えばいいのか、彼を罵るべきかお礼を言うべきか迷う。でも、何を言ってもすでに手遅れであることなどわかりきっていた。理解するより早く、捕らわれていたのはわたしの方なのだから仕方がない。
耀さんはしばらくして本田さんにたっぷり叱られて、わたしと一緒に日本に戻ることになるのだけれど、不満を漏らす彼が未だに手を離してくれないのでわたしは満たされているままだ。




















爪先立ちした恋心





(10.05.08)