この世界では感覚が鋭くなることがある。ふとしたとき、時間を超えたような不思議な瞬間が訪れる。追っ手との鬼ごっこの末捕まりそうになった刹那、突然体が引きはがされたように距離があく。銃を向けて発砲しても銃弾はあたることはない。それらはすべて、鋭敏になった感覚のなせるわざのように感じていた。それか、時間を操る彼らの瞳には時間そのものが感覚ではなく立体を持って見えているのかもしれない。
あぁ、またなの。
わたしは真っ暗な場所で感じる。具体的にはわからないが言ってしまえば世界のすべてがズレた気がした。この世界と自分との間に空気の膜が混ざりこんできたような、不快感。
引っ越しだと気づくのは易く、心を理解させるのは難しい。真っ暗な場所であるのは瞳を閉じているからだとわかっているのに、開けてはいけないと拒否する意思がある。


「…………あぁ」


嫌々まぶたを開ければ、そこは鬱蒼とした森の中だった。カラフルな矢印の森がわたしを包み込み、冷たい緑の匂いが肺を満たす。
わたしはユリウスの部屋で眠りについたはずだ。まだ仕事をするユリウスの頬に唇を押し当てて、彼のベッドに潜り込んだ。おやすみなさい、明日のごはんはオムライスにしましょうか。眠りにつく瞬間に食事の話をするのか、とユリウスが苦笑したのが聞こえ、心に温かさを忍ばせながら瞳を閉じた。
間違っても光の届かない森の中たった一人で眠ったわけではない。運ばれた先がよもやこんな場所だなんて思いもしなかった。
わたしは額を押さえ、ふつふつとわき起こる怒りをどう処理するか考える。理不尽には慣れたが許したわけではないのだ。
あてどもなく歩き始めたわたしの目の前に大きなキノコの姿が現れ、とりあえず拳を振り上げたわたしに迷いはなかった。右ストレートは完璧にキノコに吸い込まれ、大きくカラフルなキノコは揺れてどさりと奇妙な音をたてる。


「ぐえ!」


ぐえ?
まるで引かれたカエルのような声にキノコを回り込めば、銀髪の男性が顔面から地面に突っ伏していた。
わたしは男性――ナイトメアと、キノコの上に置かれている水煙草を交互に確認する。


「また不健康なことをしているのね、ナイトメア」
「そこはまず人を落としたことを謝るべきじゃないのか?!」


がばりと起き上ったナイトメアが涙目で訴える。わたしは苦笑して彼の顔についた泥を払ってやった。


「うん、ごめんね。でもまさか女の子の右ストレートで蓑虫みたいにキノコから落ちたなんて認めたくないかなって思って」
「うっ」


かっこつけのナイトメアを一応気遣ったのだが、彼はそこまで思い至らなかったらしい。彼はぐっと押し黙り、寛大な領主らしくわたしを許してくれる。そうしてキノコへ引き上げてくれた。
彼が吸う水煙草の匂いが満ちる。その姿をぼんやりと眺めると、ナイトメアがおずおずと尋ねた。


「あーー、嫌か?」


その落ち着かない様子に、わたしは思い至る。いつかクローバーの国で、水煙草をふかしながら吐血する夢魔にわたしはキレた。どうしてわたしがあなたを大事だと思うのに、あなたは自分を大事にしてくれないのかと。一生そうしていればいいと思ったことは覚えている。それならばわたしは付き合わない、と思ったことも。
まさか律儀に覚えていてくれたとは意外だった。わたしは少し眉をあげる。


「少しなら。気分転換はするべきだと思う」
「じゃあ」
「けれどまた具合が悪くなったりしたら、今度は右ストレートが直接あなたに向かうとおもって」


暴力的なこととは切っても切り離せない世界のくせに、ナイトメアはわたしの言葉に顔を青くさせる。
わたしはミントのフレーバー香る煙の中で、膝を抱えた。上を見上げれば切り取られた青空が広がっている。同じ空に見えるのに、ズレてしまえばすべてが初めて感じるもののようだった。


「引っ越しがおきたのね」


ひとり言のように呟くが、ナイトメアは答えてくれた。


「あぁ。引っ越しは起きた」
「ここはどこなの」
「ダイヤの国だ」


ダイヤの国。ハートの城に落ちて、クローバーの国を廻り、ズレた先で出会った国の名前。
ナイトメアは夢の中の彼のように、わたしの知りたい情報を小出しかつあいまいにしようとしている。わたしが欲しいのは明確で決定的な答えなのに。
それでもこの会話のやりとりを愉しめるようになったのは、幾分でもこの世界に慣れたからだろう。ダイヤの城、美術館、駅と帽子屋領。それらに統治する領主がおり、この国にはマフィアが二つ存在する。遊園地が領土争いをしているような可笑しな世界だから、美術館がマフィアであると言われても驚けなかった。ただ来館する人は大変だろうなと思っただけだ。


「それで? この国へは誰が引っ越してきたの」


わたしは微笑んで尋ねる。わざわざ彼の瞳を見て。


「ここへは…………」


わたしの卑怯さをわかってくれている、ナイトメア。


「君一人が弾かれたんだ。クローバーの時の時計屋と侯爵のように」


彼はわたしの目を見て答えてくれた。わたしは心から落胆すると共に、ようやく体の力が抜けていく理由を知った。この国で目覚めたときから体がだるく、寂しさの淵に立たされているようだった。誰もいない舞台上で突然踊れと言われたときのような混乱する気持ち。


「待って、ナイトメア。ここには帽子屋領があるんでしょう? だったらブラッドはいるんじゃない」
「あぁ、帽子屋はいる。だが君の知る帽子屋ではない」


ブラッドはわたしを知らない。わたしの知るブラッドではないというのなら、そういうことだ。
自分の右手が小刻みに震えだしたことにわたしは気づかない。


「この国はの経験したどの国よりも危険と言っていいだろう。未発達な組織が多く、不安定になっている。君の知りたかった友人の過去の姿だと、言えなくもない」
「言えなくもない?」
「そうだ。過去は過去に過ぎず、未来への道の一つでしかない。選ばれなかったもう一つの道が続いて、たくさんの未来を築いているのだから、過去だってそのひとつにすぎない」


つまりは知人の辿ったかもしれない過去へ飛ばされたということだろう。
わたしは力の入らない指で拳を握る。


「時間軸を狂わせてまで、わたしは引っ越したってこと?」
「そうだ。君は、この世界で唯一今の君しか存在していないのだから」
「心臓を持っているから? そんなの可笑しいわ。もうずいぶん長いことここにいるもの」


わたしの選ばなかった道だって無数に存在しているはずだった。
ナイトメアは苦笑してわたしの頬に手を伸ばす。血色の悪い冷たい指先が頬をなでた。


「けれど、君はまだ余所者だ」


死刑宣告よりも重い言葉だった。
この世界に落ちてきたときは不安だらけだった。早く戻りたかったのだし、解放されたかった。悩んだ末に愛する人と大事な友人を得たのに、ここでまさかの展開がくるなんて誰が予想したのだろう。
わたしはナイトメアの手に自分のものを重ねる。病弱な夢魔よりも随分熱い手は、もう震えていない。


「教えてナイトメア」


この世界が物騒で残酷なことなど当に知っている。知らなければいけないものはもっと本質的なことなのだ。
わたしが選んだたった一人の人の元へ、どうやれば帰りつけるかということ。きっともぬけの殻となったベッドを見て、ずいぶん心配している大切な人。


「わたしが選ぶものは決まっている。この世界であって、この国ではないわ」


時は巡ると言われて、大人しく待つほどわたしは出来た人間じゃない。


「戻る方法を教えて。絶対に戻って見せるから」




















足を踏み外した世界の端っこ





(2014・03・29)