思えばひとりになるのは初めてだ。
ハートの国に落ちてきたとき、見知らぬ塔の上で途方に暮れるわたしをユリウスはすぐに見つけてくれたし、引っ越しのときはナイトメアがことの次第を今回のように説明してくれた。夢の中ではなく現実となって現れた彼は尊大な態度なのにどこか頼りがなかったから、わたしを心配してくれたアリスが城に誘ってくれたのであっさり付いて行ってしまった。アリスは同じ余所者としてこの世界の矛盾を一緒に共有してくれたし、ユリウスとは違った意味で唯一無二の理解者だろう。
だからアリスのようにひとりきりだったことがない。アリスの友人として紹介されたわたしはハートの城や帽子屋屋敷、遊園地にもすぐに溶け込むことができた。もちろん紹介されたあとは自分の言葉で関係を築いていったのだし、アリスとは違う扱いをしてもらっていたこともわかる。
けれど、とっかかりがあるのとないのは大きな違いだった。


「……………わたしに甘い世界ね」


アリスよりもわたしに甘い。整えられた世界で自由にふるまうには十分すぎるお膳立てだった。
そうして、ようやく自分の気持ちに気付くことができた。この世界でもっとも信頼している男性を好きだと言えたのだ。ユリウスがわたしを愛してくれていることを、わたしが彼を同じように大切だと思っていることを、確かめ合えたときの幸福な気持ちをあらわすことはできない。ただ信じられないくらい優しく抱きしめてくれたときの彼が頬を赤く染めているのを見たとき、幸福を絵にするのならばこの瞬間だろうと思った。
それなのにわたしはたったひとりきりでダイヤの国にいる。ユリウスやアリスと引き離されて時間軸さえ狂ったifの世界に迷いこんでしまった。
戻らなければいけない。わたしは自分の意志で戻らなければ。


「君が戻る方法はある。リスクはあるが……………」


リスク。この世界に危険ではない方法などあった試しがないのに、ナイトメアは律儀に付け加えた。


「この国には汽車がある。汽車は乗る者が一番望む場所に連れて行ってくれる。ただ君のように不安定な余所者は迷いやすく惑わされやすい」


薄い紫の瞳が心配そうに細められた。


「一度迷えば、汽車に取り込まれかねない。リスクは大きい」


けれどそれしか方法がないならば、迷ってなどいられないだろう。
ナイトメアはわたしが毅然と考えを曲げないので、不承不承頷いてくれた。これから先は付いていけないけれど、君の願いが叶うのを待っていると。二人目の家主であり友人でもあるナイトメアの精一杯の声援だろう。
ひとりで森を歩きながら、わたしはこれほどまでに自分自身を頼りなく思ったことはないなと思う。この世界に落ちてきたときは心細かったけれどユリウスが居てくれた。友人が増えるたびに忘れて行ったけれど、この世界に怯えていたときは確かにあったのだ。部屋の隅で小さくなりながらすすり泣くわたしを、ユリウスが追い出さなかったことは正に奇跡的だった。


「帰るからね、ユリウス」


わたしの意志であなたの元へ。いつも迎えにきてもらうだけではなく、彼の胸へ迷いなく飛び込めるようになりたかった。
この国の汽車がどのようなものであるかはわからない。なにしろ森の中を泳ぐクジラがいるような世界なのだ。現実の汽車と同一視はできないし、ナイトメアの言うように人を惑わせる汽車ならば尚更気を引き締めていかなければいけない。


「とりあえず、汽車に乗るなら駅に行かなくちゃ」


四つの勢力争いの内、駅は比較的中立の立場をとっているらしいが油断はできないだろう。この世界は今までのどの国よりも情勢が不安定で、マフィアも帽子屋屋敷と美術館の二つがあり、日夜抗争が行われているのだという。争いに巻き込まれないのが得策だが、中立の立場をとっている場所に逃げ込める準備はしておくべきだ。
やがて森を抜けるための道を見つけ歩いていくと町が姿を現した。町のつくりや外観は以前の国とそん色ないように見える。
土地に不得手のまま闇雲に駅を探しても仕方ないので、人気のあるところまで出て道を聞こう。そう思い町の中心部らしき方に足を向けたときだった。


「へぇ、珍しいこともあるもんだな」


あきらかにわたしへ向けられた声だった。驚いて後ろを振り向くと、見知らぬ男性が立っている。こげ茶の髪と似た色のスーツ、眼鏡をかけた面立ちは穏やかさを醸し出そうとしているが威圧感を隠しきれてはいないように思えた。
わたしは一歩後ずさる。なにしろ一人だと思った男性の背後には数人の男が――こちらもスーツを着ているが明らかに一般人の風体ではない――隠れており、わたしを値踏みするように凝視していたからだ。


「ん? あぁ、悪い。おい、お前ら、こんなお嬢さんを威圧するんじゃない。怯えちまってるだろ」


先頭の男性が片手で制す。口ぶりからすると彼の部下なのだろう。わたしは先頭の男性の表情を読み取れることに驚いた。顔があるのだ。だとすれば、彼は役持ちに違いはなく、『珍しい』のは、わたしが何者かわかったからだろう。


「悪いな。つい声をかけちまったがお前さん余所者だろ?」


大当たりだ。わたしの思惑と彼の予想が合致したことで、わたしはうっすらと微笑む。


「えぇ、そうなの。ここには引っ越しで飛ばされたばかりで土地勘もなくて困っていて…………よかったらあなたのお名前を教えてもらえる?」


彼の部下が面食らったようにざわめき、「小娘が誰に口きいてんだ!」と野次さえ飛ぶ。言葉の使い方をとっても堅気の方々ではないようだ。微笑みながら緊張していると、先頭の男性が野次を叫んだ男性の後頭部をばしっと叩いた。


「何言ってるのはてめぇだろう。声をかけたのは俺だぞ?」
「けどお頭!」
「まぁ、お前らがわからねぇのも無理はねぇが………このお嬢さんは余所者だ。俺も会うのは初めてだが、言ってることは嘘じゃないだろう」


頭、と呼ばれた男は一歩前に出て太く骨ばった手のひらを差し出した。


「いきなり声をかけて悪かったな。俺はジェリコ=バミューダ。美術館の館長をやってる」


美術館。この国で対立しているマフィアの片方は美術館だったはずだ。ではブラッドと対峙している――わたしの知らないブラッドではあるけれど――のは彼なのだ。では後ろの男性たちは単なる取り巻きではなく護衛ということになる。


「わたしは。声をかけてもらってよかった。途方に暮れていたから」


差し出された手のひらに自分の手を滑り込ませる。緊張で震えているのが伝わなければいい。自分の口からすらすらと出てくる言葉ばかり耳の上をすべるようだ。ナイトメアの助言など感じさせず、無知な余所者を演じられているだろうか。


「駅へ行きたかったの。けれど道がわからなくて」
「駅だって? 知り合いでもいるのか?」
「そんなところ。悪いんだけど、方向でもいいから教えてもらえない?」


ジェリコは駅と聞いた途端に顔を曇らせた。汽車は余所者を惑わすというのは本当のことらしい。けれど元の世界に戻りたいから汽車に乗ると正直に話せるほど目の前の男を信用したわけではない。
ジェリコは数秒考えたあとで、にっと笑った。人好きする快活な笑いだ。


「ここで会ったのも何かの縁だ。よし、駅まで送って行ってやるよ」
「え? そんな、ご迷惑には」
「いいって。それに俺たちの目的地も駅だ」


まったく安心できない上にマフィアと敵陣地に向かうほど無謀にはなれない。それが中立地帯であっても御免こうむりたいお誘いではあったのだが、屈強なお付きの方々の威圧感は拒否の言葉を認めてくれそうになかった。


「じゃあ、お願いします…………」
「あぁ! 道々、あんたのことを教えてくれよ」


相変わらずさわやかに笑いながらジェリコはわたしの肩をばしりと叩く。話も通じるようだし常識のある人でよかったと心の隅で思った。けれど、彼らが駅に何の目的があるにしろ早々に離れた方がいいだろう。抗争をするには人数が少ないが、この国で面倒事に巻き込まれたくはない。
ブラッドたちと平気で話せるようになっていてよかった、と銃を隠しもせずに携帯する男性たちに囲まれながら考える。














神様は不在  





(2014・03・30)