黒ウサギが現れたあと、すぐにジェリコはわたしを背にかばった。 「あぁ、宰相閣下じゃねぇか。いいのか? 女王陛下を置いてきちまって」 「いいも何も、ああして声を張り上げたところで夢魔が出てきた試しなどありませんからね。今回もどうせ無駄骨です」 「まぁな。それでも主人にしたがってここまで来るなんて、お優しいじゃねぇか」 続けられる会話に心臓を落ちつけようとする。ジェリコの背中に隠されたが、黒ウサギの姿が瞳に焼き付いていた。垂れた黒い耳、ロップイヤーという種類だろうか。この世界に来てから見ることの多くなった無機質で冷たい視線を持っていた。わたしをはじめて見たときの、ペーターを思い出す。ペーターはアリスにしか興味がなかったものだから、仕方のないことだったけれど。 二人はまだ何か話しているようだった。ジェリコの背後に隠れたままのわたしのことなど気にしていない様子に安堵する。 「それで? あなたはまたきな臭い仕事ですか」 「きな臭いってお前なぁ………ま、否定はしねぇよ。今はマフィア絡みだからな」 「マフィアでも美術館でも同じことでしょう。駅の中に用事なんでしょうが、今はあの状態なので諦めてもらえますか」 これ以上の面倒事はごめんなんですよ。冷めた声が続けた。 「あぁ、わかった。俺も女王陛下とやりあうつもりはねぇよ」 「そうですか。おわかりいただけてなにより。兵士には手を出させませんから、さっさと行って下さい」 丁寧な口調だが不遜な物言いにもジェリコは笑って応対する。まるで本当にペーターとゴーランドのやりとりを聞いているときのようだ。大らかなゴーランドと潔癖なペーター。 「あぁ、そうさせてもらう。女王陛下にもよろしく伝えてくれ」 「あら! シドニーがいつまでも来ないと思ったら、ドードー鳥ではないですか」 またしても突然、高くて幼い声が混じった。先ほどまで聞こえてきた拡声器ごしの声だ、とわたしはジェリコの背中で戦慄する。だとすれば、この声の主は氷漬けが趣味の女王陛下だ。 「陛下、夢魔は出てきたんですか」 「何もしないウサギさんがよく言いますわ。今日もダメです。兵士に発砲させようとしたらいつも通り、みんな眠らされてしまいました」 「いつものことでしょう。はぁ…………では、引き揚げましょうか。彼らは彼らの仕事のために来ているんですよ」 黒ウサギがうんざりした様子で誘導する。女王陛下の関心がこちらに向くことを危惧しているようだった。わたしはひそかに黒ウサギを応援する。とにかく早く立ち去ってほしい。 「仕事、ですか。ではあなたの後ろに隠れている方も仕事の関係ということでよろしいのかしら」 問われてびくりと肩が震えた。確かにかばわれていると言っても完全に視界から消えたわけではない。黒ウサギには興味を持たれなかったが、女王陛下には気づかれたということだろう。ジェリコが気遣う気配を見せてくれたけれど、わたしは自ら彼の背中から姿を現した。 女王陛下は思ったように幼く、可憐な美少女だった。透けるような肌にきれいなエメラルドを思わせる瞳が見開かれる。 「まぁ! まぁまぁまぁ!」 そして突然身を乗り出して叫んだ。わたしはその勢いに気おされて数歩後ずさる。美少女はそんなことお構いなしに両手をあわせて瞳をきらきらさせている。 「不思議な気配だと思いましたけれど、まさか余所者さんにこんなところで会えるとは思いませんでしたわ!」 「余所者………? その女がですか?」 眉をあげて質問する黒ウサギに女王は厳しい視線を返す。 「そうです! シドニーったら、こんなに素敵なものを独り占めするつもりだったんですかの?!」 「独り占めも何も…………ただ役に立たない女を連れているなと思っただけでしたからね。実際、非力そうだ」 肩を竦める黒ウサギはわたしが余所者とわかったあとも興味がなさそうだ。そんなところもペーターと被って見える。 「余所者は初めてお会いしましたけれど、本当にわかるものなのですね。お名前はなんておっしゃるの?」 また一歩、女王陛下が身を乗り出す。わたしは呆けていた自分にはっとする。ここがどこですぐに帰るつもりだとしても、女王陛下を怒らせてしまうわけにはいかない。 「わたしはと言います。女王陛下」 「堅苦しいのは嫌いです。あなたはこの世界で唯一誰の支配下にもおかれない存在なのですから、どうぞ気楽に話してください」 「いえ、そういうわけには」 「いいえ、ダメです。わたくしの名はクリスタ=スノーピジョン。どうぞクリスタとお呼びになってください。不敬罪などには問いませんわ」 わらわのことはビバルディと呼んでおくれ。記憶の中の女王が、妖艶に微笑む。 わたしは寂しさを悟られないように微笑んだ。 「わかった、クリスタ。これでいい?」 「えぇ! どうぞ、仲よくしてくださいね!」 満面の笑み、頬を染めて感激するクリスタにわたしは苦笑する。この世界の女性は可愛らしい人ばかりだ。 「あぁ、紹介が遅れましたね。この者はシドニー。黒ウサギの宰相です」 「はぁ………どうぞ、よろしく」 「それよりも! ドードー鳥と一緒にいるということは、美術館に滞在を決めたんですの?」 シドニーのやる気のない挨拶など構わないというように、クリスタが尋ねた。わたしはその言葉に虚をつかれる。滞在地を決めるつもりなどなかったのだ。それまで傍観していたジェリコが苦笑して話にまざる。 「このお嬢ちゃんはまだこの国にきたばかりだ。駅に行きたいっていうから一緒に来たが」 「駅? ナイトメアに会いにきたんですの」 先ほどまで氷漬けにしてやろうと目論んでいた相手とは思えないほど無頓着にクリスタは呼ぶ。わたしの知るナイトメアとはおよそ違う人物を、この二人は思い描いているのだと思うと笑えた。 「えぇ」 この国のナイトメアと面識などないし、本当は会うつもりもなかったがそう答えた。 問題があるのは汽車であり、わたしが会いたい人たちはこの国にはいないのだ。 「駄目ですわ!」 声と共にがっしりと右手首が掴まれる。小さな白い手がしっかりとわたしの手首を握っていた。 「余所者に駅は危険です。汽車がありますもの」 「え、いや。それは知ってるけど」 「知っているのならやっぱり危険です。それでも行きたいのは、戻りたいからでしょう?」 戻りたいのでしょう。そう言われて、わたしは嘘をつくことができなかった。女王陛下の独占欲は強く、余所者への興味も人一倍だということは知っていたのに。 手首にひやりとした冷気を感じ、わたしは文字通り凍りつきそうなのだと実感した。 「おい、女王!」 「なんです、ドードー鳥。あなたもあなたです。が帰りたいことを知っていて、わざと駅まで送ってきたんでしょう?」 言われてジェリコを仰ぎ見れば、彼は罰が悪そうな顔をした。 「は最初から駅に向かうことを望んでた。汽車に乗りたい理由はひとつだろう」 「それにしたって薄情ですわ。余所者がそうそう望む場所に帰られるはずがありません」 きっぱりと言い切られて、わたしはぽかんとしてしまった。 帰られるはずがない。余所者は迷うことが当然で、受け入れるべきことだから。この世界の住人にはない心臓がある限り不安定であり続けなければいけないなんて、ナンセンスだ。 「帰る」 思ったよりも硬質な声が口から漏れた。 わたしの知る人たちではない、ジェリコもクリスタもシドニーも、他の誰が悪いわけでもないけれど責めるような声が出てしまう。 「わたしは帰るの。例えそれがどんなに危険なことでも、方法がそれしかないなら」 汽車に惑わされて、飲み込まれてしまったとしても何もしないよりマシだった。 耳の奥でユリウスの声が聞こえるようだ。いつだってわたしを心配してくれた愛おしい人。 わたしは精一杯クリスタに微笑む。 「お願い、クリスタ。あなたに会えたことは嬉しい。けど、わたしは引っ越す前の国に帰りたい」 ハートの国でもクローバーの国でも、とにかくユリウスがいる国に戻りたかった。わたしだけが弾かれた、懐かしい国に。 この女王陛下はそれほど残酷には見えないけれど次の瞬間には氷漬けにされてしまうかもしれないと、冷静な部分で考えるけれど止まらなかった。 「誰にも譲れないものがあるの」 じっと彼女の瞳を見つめる。可愛らしい少女の大きな瞳に自分が映っている。クリスタはしばらく黙ったままだったけれど、ようやく諦めたように手を離してくれた。 「わかりましたわ」 いくらか肩を落としたクリスタは慰めたいと思わせるほど儚げだ。隣でシドニーが意外そうな顔をする。 「珍しいですね。陛下が人の頼みを聞くなんて」 「せっかくお会いできたのに残念ですが、氷にしてしまいたくてもこう邪魔が多くては」 理解してくれたようで安心した心が一気になぶられる。クリスタは片頬に手を添えて本当に残念そうだ。シドニーは冷めた瞳で続ける。 「そうですね。ここでは私たちが侵入者です。ドードー鳥はもとより、事を起こせばもう一匹が黙っていないでしょうね」 「仕方がありませんね。…………?」 もう一匹とは誰だろう。わたしが気配を探すよりも早く、クリスタはきれいに微笑んだ。 「本当は嫌ですけれど、今日はここで引いておきます。だから汽車に乗れなかったらお城においで下さいね」 「陛下、乗れなかった時点で汽車に惑わされているに決まっています。そんな面倒事をほいほい招き入れるような真似は」 「ウサギさんのことなど構わず、城に来てください。わたくし、もっとお話がしたいんです」 シドニーのことは無視するつもりらしい。けれど氷漬けと隣り合わせであることを理解しながら訪問する勇気などわたしにはないだろうと思った。 クリスタは最後に眉尻を下げて、小さく声を落とした。 「できれば、大切なものを持たないあなたに会いたかった」 ごきげんよう。クリスタはくるりと背を向けると歩き出す。わたしはジェリコと共にその背中を見送った。最後の言葉がわたしの中でいつまでもこだましている。 まるで、「大切なものを持たないわたし」にも会えるチャンスがあったような言い方に心奪われていた。 |
百色の虹
(2014・03・30)