ダイヤの女王陛下が嵐のように去ったあと駅に向かったわたしは結局汽車に乗ることは出来なかった。
女王の奇襲に厳戒態勢を敷いた駅が扉を封鎖してしまったためだ。しばらくは開けられないと申し訳なさそうに駅員は説明してくれた。その原因として、女王を撃退したはずのナイトメアが夢に逃げ込んでしまったらしいことも話してくれた。駅長へのお目通りだけでもお願いしたかったわたしはどこへ行ったらいいかわからず――入ってしまえば汽車を早々に見つけようと目論んでいた――、最初の申し出どおりジェリコの領地へ厄介になることにした。
ジェリコは嫌な顔ひとつせず、わたしを美術館へ招待してくれた。客室を用意しようと言われたけれど断って、彼の部屋でお茶を飲んでいる。


「本当にいいのか? 疲れているだろ」
「我儘ばかりでごめんなさい。でも、いいの」
「…………そんなにこの国に居場所を作るのが嫌か?」


カップを持つ手が止まったのは正に図星だからだろう。わたしはこんなにも優しくしてくれる人を不快にさせている。


「ごめんなさい。いい気分じゃないよね」
「あぁ、そうじゃない。アンタ、会った時からずっと張りつめてるだろ? そんなんじゃ、判断力も鈍るからな」


自分のカップを持ち上げてジェリコは喉を鳴らすように飲み干す。喉が上下するさまが綺麗だ。わたしはいくらか肩の力を抜こうとする。少なくとも、目の前の男性は信じることができそうな気がした。


「帰らなくてはいけないの。帰らないと心配させてしまうから」
「アンタを待っているやつは随分、心配性なんだな」
「心配性だしヤキモチ焼きなの。わたしはずっと迷惑ばかりかけていたのに、呆れたり手離したりしなかった。どんな場所にも助けにきてくれたの。戦うのは苦手な人なのに」


ルールを破って助けにきてくれたとき、嬉しかったのに怖かった。ユリウスを危険にさらしたのは自分自身なのだと思うと自分が嫌いになりそうだった。
ぽんぽんと頭を叩かれて瞳をあげるとジェリコが微笑んでいる。


「大事なんだな、そいつが」
「大事よ。愛しているもの」


口から滑り落ちた言葉に自分で驚いた。こんなにもはっきりと誰かに好意を告げたのははじめてだった。


「はっきり言うんだな。まぁ、この国の奴じゃないだろうし、名前を教えてくれよ」


羨ましいやつの名前くらい知っておきたい。
おどけて話してくれるから、わたしは微笑んで続けることができた。愛する人の名前を、自信を持って言えることが嬉しい。


「ユリウスよ」


藍色の長い髪と瞳が印象的な、整った造作を持つ根暗な時計屋。わたしは彼を思い出して笑っていたのでジェリコの表情が固まってしまったことに気付くのが遅れた。ジェリコが半ば呆然と、自分の口を押えてはじめてわたしは首を傾げる。


「どうしたの、ジェリコ」
「い、いや。そうか、あんたのお相手は時計屋か」
「うん。……………あぁそっか。この国にもユリウスがいるのね。でもその人とわたしが好きな人とは別だから、気にしないで。それに会うつもりもないし」


時計屋が重要人物であることも、この国に別のユリウスがいることも予想してはいた。帽子屋があるのだからブラッドはいるはずだし、この国の誰もが別人であるとわかっている以上名称が違っても知っている人物が統治していたとしてもおかしくない。駅をナイトメアが管理しているように、ユリウスが必ずしも時計塔にいるとは限らないのだ。クローバーの塔に間借りしているときみたいに、誰かとしぶしぶ同居しているかもしれない。
けれど会うつもりはなかった。会えば動揺する自分が目に見えていたし、別人だとしても冷たい態度をとられればどんなことよりも堪えるだろう。
ジェリコはしばらく黙り、けれど意を決したようにわたしに向き直った。


「ユリウスはこの国にもいる」
「そう。どこの領地に居るの? そこへは行かないようにしなくちゃ」
「いや、その…………本当に悪い。ユリウスはここにいるんだ」


ここ。わたしは目を丸くする。ジェリコの指したのは、間違いなく美術館だ。


「ここに、いるの?」
「あぁ、悪いな。あんたの帰りたい理由がアイツだとは、その、想像がつかなかった」
「い、いいよ。謝らないで。ユリウスが恋愛沙汰に疎いのはわかってるし」


心臓が無駄に心拍数をあげていく。会わないつもりだと自分で言ったくせに、本当は姿だけでも見ておきたいくらい恋しいのだと自覚せざるを得ない。


「そっか。でもジェリコは理想的な同居人かも」
「は?」
「だって、ユリウスが引きこもってもときどき連れ出してくれてるんじゃないかなって。あなた、結構世話焼きじゃない」


わたしが努めて軽口をたたくと、ようやくジェリコは緊張感を解いてくれた。


「世話焼きってなぁ。確かに飯に連れ出してはいるが、俺はそこまで献身的じゃないぞ」
「それでいいの。ユリウスを連れ出せる人って貴重だもの。わたしが言うのはお門違いだけど…………ありがとう」


根を詰めて働き過ぎる人だから誰かに見ていてほしかった。それが別人のユリウスだろうが、見ていてくれる人がいてくれてよかったと思う。ジェリコは少し照れたように頬をそめる。


「なんだか、気恥ずかしいな」


そうしてひどく優しげに瞳を細めた。


「まるで本当の奥さんに感謝されているみたいだ」


奥さん。言葉と一緒に胸が温かくなる。ユリウスの隣に自分の居場所が確かにあるのだと確信できたような気がした。マフィアのボスに愛人宣言されるような妻でも認めてくれる寛大な夫には見えないが、それでもユリウスはわたしから離れようとしないだろう。自惚れだろうが、それは事実だ。
わたしは気を取り直して立ち上がる。座るジェリコに、歯を見せて笑った。


「早く戻らなくちゃ。一層会いたくなっちゃったもの」
「ははっ、惚気だな」
「そうよ、惚気なの。普段はこんなこと言えやしないのに、ここでは言葉にしないと怖いから」


覚えていることが強みだけれど、いつ消されるかわからない。そんなあいまいな記憶にすがりついている自分がひどく嫌だった。
いつもいつも迎えに来てもらうばかりだった。そのたびに無理をさせてしまった。わたしが自分の気持ちを決めかねているときだって、辛抱強く待ってくれていた人だ。


「今度はわたしが自分で帰るの。それから胸に飛び込んで愛しているって叫ぶ」


そうしたらどうなると思う?
いたずらっぽく聞けば、ジェリコは破顔して額に手をあてて笑った。


「そりゃあ、アイツひっくり返っちまうな」


その通り!
わたしはジェリコの肩に手を置いて羽のように軽いキスを頬に落とした。感謝と敬愛を込めて。ジェリコが照れたように笑うのをまぶしく見つめて、くるりと体を反転させる。さよならと言いたかったのに、小さく言うことができたのは感謝の言葉だった。この世界で初めて会った住人が彼でよかった、と思う。
扉を開けて体をすべりこませる瞬間、最後に見たジェリコは手を振ってくれていた。この世界でさよならを言ってもらえるのは、なんて寂しいんだろう。わたしは手を振り返さずに思い切り笑顔を作って扉を閉める。























欠けた



(2014.03.30)