美術館を飛び出して、わたしはひたすらに走り続けた。足は痛いし呼吸もままならないくらい、全力で走っている自覚がある。目立つべきではないのに息を切らして走るわたしは目を引いたし、顔なしの人々には奇妙に映ったことだろう。
けれど止まることなんてできなかった。勢いを殺せばたどり着けないと思えるくらい切羽詰っていた。まるでこの国に捕まらないように走っているみたいだ。それはあながち間違ってもおらず、つまりは一刻も早く引きはがされた国に戻らなければいけなかった。
迷いはあるけれど、戻りたい場所も大切なものも決まっている。


「あれ、じゃないか」


自分の呼吸と風の音しか届かなかったのに、掛けられた声がすんなり入ってきたのはどうしてだろう。わたしは聞きなれた声に思わず足を止めて、振り返った。


「………っ、なに、これ!」


町を抜けて森を走っていたはずなのに、振り返った先にあったものは汽車だった。汽笛をあげ滑車から白い煙を吐き出しているそれがわたしの目の前に鎮座している。わたしは目を白黒させて整わない息のままでふらふらとよろけた。


「おっと、危ないぜ? まで運動不足になったんじゃないか」


わたしの肩を抱きとめて、先ほどと同じ声がする。視線だけをあげれば驚く人物が居た。茶色の髪と真っ赤な服、うさん臭い笑顔がさわやかな騎士。


「エース!」
「ははっ。汗だくだな、。旅に出るときは誘ってくれればいいのに」
「これは………はぁ、旅じゃないっ」


なぜかはわからないが、これはわたしの知っているエースだ。わたしは安心してしまって彼に寄りかかる形でしがみつく。足はがくがくと震えていたし、呼吸も整わない。
エースは真意の見えない瞳でわたしを見ていたが、ふいに傍にある汽車を見つめた。


「これに乗るのか? 。迷っている君では危険でしかないのに」
「…………?」
「ここにもユリウスはいるんだろ? 会ってはいないみたいだけど、子供の俺もいるんだ。君が望む人の代わりだよ」


酷薄な瞳は表情を映さない。何が彼を動かしているのかなどわからないけれど、紡ぎだされるのは呪詛のような言葉だ。


「廻っていけば代わりが必要になって、適当なもので誤魔化していく。長い時間を廻るんだから代用は必要だ。君は器用だし―――っ」


渾身の力を振り絞って右手でエースの口をふさぐ。わたしは唇の端だけをあげて笑った。


「どの口がそれをっ…………はぁ、…………言うの」
「…………」
「あなたが器用だっていうの? …………ユリウスが器用だっていうの?」


わたしがいなくても誰かで代用できるほど器用なんて、言わせない。


「わたしを誰かで代用したら、許さない。させない。わたしはあなた達じゃなきゃダメなのにそんなの不公平でしょう!」


叫ぶと耳を覆いたくなるような汽笛の音が響いた。視界が白く染まり、もう一度目を開ければまた景色が変わっていた。通路を挟んで座席が等間隔に並ぶ、汽車の中だ。窓の外にはナイトメアの夢の空間のような、あいまいな光ばかりの世界が広がっている。


「あーあ、乗っちゃったか」
「エース」
「でも、乗る前にチビの俺を見てほしかったな。結構可愛いんだぜ?」


本当は見てほしくなんてないのだろう。直感的に感じたのはもう長くない年月を彼と過ごしてきたからだ。


「本当ね、もう汽車は発車してしまったみたいだし、ナイトメアの子供のころも見たかったけれど」


もう見られない。
代用なんてきかないのだ。されるのもするのもまっぴらごめんだった。
あとは汽車が到着するのを待つだけだろうと座席に座ろうとしたが、エースが二の腕をがっちりと掴んでいた。


「なに…………?」
「まだ、だよ」


ほら、と指を差された先には次の車両だ。あちらに行けと言われるのかと思えばそうではないようだった。真剣な瞳で見つめるエースに根負けしたように、視界が歪んで人が現れる。いきなり現れた幽霊みたいな汽車の中に忽然と現れる男が人間ならの話だが。


「まったく、君たちはどこまで過保護なんだろうね。それ以上は度を越してるんじゃないか?」


赤い髪と眼帯が特徴的な男は車掌のような恰好をしていた。呆れているように肩を上下させて、つまらなさそうにあらぬ方向を見ている。見たことがある男だったが、思い出せない。


「いいだろ。ジョーカーさんにはアリスがいるし」
「アリスだってがっちり白ウサギに守らせておいて、よく言うよね。は自分で汽車まで呼んじゃうし…………君、処刑人の自覚あるの?」
「ははっ。仕方ないじゃないか。俺、ジョーカーさんのこと大嫌いだからさ!」


ちっとも大丈夫だとは思えなかったが、エースは朗らかに笑った。右手を大剣にかけたエースの服が、いつのまにか真っ黒に変わっていた。帽子も黒く、陰気な洋装だと感じる。
ジョーカー、処刑人。聞いたこともない初めて聞く言葉ばかりだ。それなのに、こんなにも懐かしいのは何故だろう。わたしの記憶にはまた穴が開いていてそこから零れ落ちたものの中にそれらがあったのだろうか。それとも曖昧に誤魔化された部分のどこかに隠されているのだろうか。
ジョーカーの背後にちらりとカラフルな紙吹雪が見えた気がした。まるでショーの最中に空から降るきれいな紙吹雪。


「それにジョーカーさん、は迷ってるよ。迷っているから汽車に乗ったんだ」


黒い処刑人の服を着たまま、朗らかに首だけをこちらに向けられる。わたしは力強く頷いた。


「当たり前でしょ! ユリウスの元に戻るってこと以外は何にも決めてないもの! この世界で迷わなくなることなんて絶対ない!」
「ははっ! そんなに力いっぱい言わなくてもいいよ。も俺と同じで迷子だもんな」
「エースと一緒なんて絶望的なこと言わないでちょうだい!」


わたしの悲鳴じみた叫びもエースの笑いで上書きされていく。
目の前にいるジョーカーが気の毒になるが、この男にユリウス以外の常識は通用しないだろう。


っ、後ろの車両に行くんだ。そこで待ってる」


エースが高らかに告げてやおらジョーカーに斬りかかる。わたしは反射的に従って身を翻した。走りにくい車内でよろけながら一直線に走るわたしの鼓膜に踊るような剣劇の音がこだまする。
待ってる。エースが自信を持っていう人を、わたしは一人しか知らない。
最後の力を振り絞るように後方車両の扉に手をかける。勢いよく開いた扉から、待っていたように二本の腕が伸びてきてわたしは体ごと攫われた。もう剣劇も汽笛も、汽車が走る音さえ聞こえなかった。慣れ親しんだ人の体温と香りに包まれて、わたしは目を開けたいのに涙で前が見えない。がむしゃらに伸ばした腕で相手の背中にしがみつくだけだ。


「…………まったく、世話のかかる」



愛おしい声が頭上から落ちてくる。まるで泣いているようにも聞こえた声に心から安堵した。涙でぐしゃぐしゃの顔を相手の胸に押し付け、わたしは意識が途切れるまで泣き続けた。わたしが愛おしい人の元に何としてでも戻ろうと思ったように、彼もどんな手を使ってでも見つけようとしてくれたのだ。
ただいま。
言葉にならない嗚咽と共に吐き出された声は、きっと彼に届いたはずだ。


















あのであので、






泣きたくなるようなきをください







(2014.03.30)