この世界では目を開いていても目覚めたことにはならず、意識がなくとも眠っていることにならない。なにしろ本人の意志と関係なく夢の中へ訪問者は現れるのだし、体ごと吸い込まれるように別次元へ「引っ越し」させられてしまう。 こうなれば、わたしがここに「居る」ということを立証するのは難しい。 ぱちりと目を開けたわたしがはじめに考えたのは、だからそれだった。慣れ親しんだ時計塔の、けれど今はクローバーの塔に繋がっているユリウスの部屋のベッドで起きたわたしの感想だ。机の上に設置された簡易ベッドから見下ろせば、ユリウスはわたしが眠りに落ちる前と同じ体勢で時計をなおしている。 ぐるりと一回り部屋を見わたして、ゆっくりと息を吸う。この国へ帰ってきたという、実感。ズレた軸は戻り、わたしは戻ってきた。 不思議なことだけれど、ダイヤの国での出来事は隅々まで覚えていた。本当は夢のかけらとなって砕けてしまうはずだったものたちは、きちんと記憶の宝石箱に仕舞われている。 どうして忘れていられたのだろう。ジョーカー、処刑人、迷うことの意義。 「ユリウス」 どれもこれも、わたしが惑わされるために必要な要因だった。 掠れる声で呼ぶとユリウスは振り返る。まるでいつもと同じ調子で。 「なん、っおい!」 立ち上がろうとしてふらついたわけではなく、わたしはベッドの淵に手を置いて膝だけを立てたあとそのまま上半身を傾けた。彼のもとに行く最短の、みちのりで落ちていくみたいに。 反射的に立ち上がり、ユリウスは両腕を伸ばして抱きとめようとしてくれる。まるで迎えにきてくれたときのようだ。けれど仕事ばかりで外に出ない運動不足の彼に、上段のベッドから落ちる女性を支えるほどの力はなかった。 ユリウスとわたしは崩れ落ちるように床に倒れる。したたか背中を打ったユリウスが呻く。 「お、まえっ、寝ぼけているのか?!」 自分は相当痛い思いをしたはずなのに、わたしはユリウスの胸の上で抱きとめられている。 誰かの腕の中に居られるのは尊いことだと、わたしはユリウスの両腕に入れてもらえたとき始めて知った。およそ予想もつかなかったことだけれど、その腕の中から決して出たくないと思ったのだ。 彼が本当に激昂する前に――そんなことがあるわけはないのだが――わたしは両手でユリウスの頬を包み込んで唇を近づける。しっかりと視線を合わせ、触れ合わせる時だけそっとまつげを伏せて。 「ユリウス」 彼の言葉を全部飲み込んで、わたしは微笑む。ユリウスは藍色の瞳を真ん丸にしてあっけにとられていた。 「愛してる。…………大好き」 今度はわたしが自分で帰るの。そうして、愛してるって叫ぶ。 実際は叫ぶことなんて出来なかった。彼に伝える愛情は慎重にしっかりと伝わるように言葉にしなければいけない。それが同じ言葉でも、わたしだけができるやり方で伝えたかった。 そりゃあ、アイツひっくり返っちまうな。 耳の奥でジェリコの声が蘇った。彼の予想とは少し違うけれど、愛を伝える前に押し倒してしまったと言ったら笑ってくれるに違いない。アンタの方が一枚上手だったわけだ、と言って。 「」 いつのまにかくすくす笑っていたわたしをユリウスは心配そうに見ている。 ダイヤの国へ迎えに来てくれたことに礼を言ったとしても認めてはくれないだろう。汽車の中での出来事は、サーカスと一緒だ。この世界の嘘に翻弄されるわたしには、唯一の真実があればいい。 「ごめん。痛かったでしょ」 「否定はしない。………気分でも悪いのか?」 「違うよ。怖い夢を見ただけ。……………あぁ、でもユリウスには褒めてほしいな」 彼の体から離れ、わたしたちは二人とも床に座り込む。立ち上がろうとは思わなかった。こうしていた方がずっとユリウスとの距離が近い。 彼は理解できない様子で首を傾げる。 「何を褒めろと言うんだ?」 「ちゃんと起きられたこと。怖い夢を見たのに泣かなかったんだから、ユリウスは褒めるべきでしょ」 まるで子供のような我儘だけれど、ユリウスは眉をあげたあと笑った。以前なら頭がおかしいと一蹴されていただろうけれど、彼も随分変わったものだ。ユリウスは可笑しそうに瞳を細めたまま、わたしの右頬を包みこむ。そうして親指で目の淵をなぞった。 「嘘だな。…………泣いたあとがある」 これは怖かったわけではなく、安心したから泣いたのだと言ったところでユリウスは認めてくれないだろう。汽車の中で抱きしめられている間中、わたしは泣いていた。嬉しくてふがいなくて寂しくて苦しかった。 ダイヤの国のユリウスに会わなくて本当によかったと思う。会っていればまず間違いなく、わたしは自分の無力さに打ちのめされて泣いていただろうから。 「ねぇ、ユリウス」 この国に居るあなたを好きなわけではなく、「あなた」自身が愛おしいのだとどう言えば伝わるだろう。この世界の不条理を跳ね除けて、あなただけに伝わればいい。 わたしは一度目を閉じて、それから歯を見せてもらった。 「わたし、あなたのことが好きだと無敵になれるみたい」 「は? なんだそれは」 「例えば氷の女王様に面と向かって啖呵が切れるくらい」 思い出すと、ひやりと手首に冷気が走った。 ユリウスは何とも言えない表情を作って、呆れるようにわたしと額を合わせる。 「それは、無謀というんだ」 「まぁ大体一緒だよ」 「全然違う。…………それでも、お前がここに居ることがすべてだな」 額をあわせたまま、ユリウスは掠れるくらい小さな声で付け加えた。 わたしはそれだけですっかり満ち足りてしまう。「引っ越し」も「時間軸の狂ったダイヤの国」すら関係なく、わたしがここに居る理由はユリウスだけだと感じる。それだけで満たされてしまっているのだから、彼以外の理由は必要ない。 わたしたちはたっぷり時間をかけて唇をあわせた。まるでこの世の最後みたいに。 「ねぇ、ユリウス。話を聞いてくれる?」 「あぁ。だが、何の話だ?」 「夢の話。芋虫とドードー鳥、それに黒ウサギと女王陛下」 断片的な記憶達を集めてわたしは微笑む。ごく短い間に起った、嵐のような出来事。きっと、長く留まればあの国の人々をわたしは好きになっていたに違いない。そうして、きっと好きになってもらえた。 ユリウス曰く、「ひとところに留まれば、この世界はお前を留めようとする」らしいから。 「わかった。お前の話は聞く」 「うん、ありがとう」 「だが、その前に食事にしよう。……………オムライスを作ってくれるんだろう?」 先に立ち上がり、ユリウスはわたしに手を差し出す。 そういえばすっかりお腹が減ってしまっていた。眠る前に約束した通り、わたしはオムライスを作ろう。ユリウスと向かい合って夢の話をしながら、満ち足りた時間の中に帰ってきたことを感じよう。甘い卵と夢の話は、おそらく二人を幸せにしてくれるだろうから。 |
何度でもあなたを奪い返しに
(2014.03.30)