しんしんと、静かに眠るような雪が降っていた。 夕暮れを当に向かえ、街なかはすでに夜の帳が落ちている。あたたかに光る街灯が等間隔に並び、その下を歩く人々は一様にコートに身を包んでいる。その手には色とりどりの箱や紙袋、すべての包装紙にお決まりのキャッチフレーズが描かれ、人々は同じように幸福そうな表情を浮かべていた。ひとりの人もふたりの人も、あるいはもっと複数で歩く人々も、あたたかで穏やかな空気を纏っていた。雪はしんしんと降り積もり、凍てつく寒さは指先を凍えさせているはずなのに。 幸福そうな人々にまぎれていると、自分の不幸が嫌でも目立ってしまう。フランシスは赤と緑に飾り付けられたショーウインドウに写る自分を見て笑った。なんて顔をしているのだろう。まったく、馬鹿げている。 ふと視線を逸らした先にちょうど止まったばかりの車があり、その中で小さな女の子が自分よりも大きなクマのぬいぐるみを抱きしめていた。クリスマスカラーのリボンを首に巻いたクマは、不平も漏らさずに抱かれている。車から父親らしき男が降りてきて、急いで傍の店に駆け込んだ。子どもを残して彼が向かった先は、小さなケーキ屋だ。 「ねぇ、フランシス。子どもは、まずは女の子が欲しい。男の子じゃなくて、必ず女の子」 車内で大人しく父親を待つ少女を見ていると、懐かしくもどかしい声が脳裏に蘇ってくる。無謀な願いばかりを口にする女性だった。そんなものは神のみぞ知ることだよ、と微笑んで自分は返事をしただろう。自分たちに子どもが生まれないことなど明らかであったとしても、そんなことは問題ではなかった。 「そうじゃないの。これは決められた未来よ。わたしは、女の子を産むの。あなたみたいに綺麗な金髪で、真紅のリボンが似合う特別な女の子」 決められた、という意思的な瞳にフランシスは見とれた。はいつだって彼女の夢見る世界を現実的に話して聞かせる。そうあるべきなのだと語りかける力に、いつだってフランシスは頷くしかない。 「君の子なら、きっと可愛いよ」 観念してフランシスは答え、同時に腕を伸ばして緩くを抱きしめた。はやんわりと囲われる腕にそっと手のひらを添えて、フランシスの喉下に額をつける。そうなるとフランシスからはまったく彼女の表情が窺えなくなるのだが、くつくつと笑い出したのできっと機嫌はいいことが知れた。 そういえば、あのときも雪が降っていた。窓の外は降り続ける雪のせいで白一色で、暖房を一切つけていない部屋は暗く静かに冷たかった。暖炉がなかったわけではない。ただ、あのときはどの家も暖炉を使う余裕がなかった。 くつくつと笑うが不意にフランシスを仰ぎ見る。 「わたしの子だから可愛いんじゃない。あなたの子だからよ。フランシス」 開いた瞳を緩く細めて、は愛おしげに呟く。 「女の子は、お父さんに似るのよ。あなたの綺麗な金髪も、輝く瞳も、形のいい指も、ぜんぶぜんぶ、わたし達の天使を作る材料になるの」 素敵でしょう。は言いながらフランシスの指を絡め、唇のすぐ傍にキスをした。 あのときの幸福と虚脱感をなんと表せばいいだろう。彼女が口にするすべてを否定したかった。明日のパンを買う金にも苦心した人々は、いつ暴動を起こしても不思議ではない。寒さと飢えはモラルと倫理を奪っていく。フランシスには自国の貧しさが、体の隅々まで凍えさせていくのがわかった。 をこれ以上傍に置いておくことはできない。彼女には彼女の立場があり、守るべきものがある。なのに、ふたりでこんな場所で抱きしめあっているなんて滑稽だ。 「大丈夫よ」 泣き出しそうなフランシスの腕をしっかりと抱いたまま、は告げた。彼女の瞳は窓の外に向けられ、降りしきる雪の奥をじっと見据えている。その先にある、何かを見定めようとするかのようだった。 「大丈夫。わたしがあなたを助けてあげる」 色を失った彼女の唇が、彫刻のように美しい弧を描く。あのときの恐怖を、フランシスは生涯忘れることはできないと思う。なんの変哲もない女だった。少し夢見がちな、どこにだっている平均的な才能を持った、ごくごく普通の女。目を見張る才覚などなく、飛びぬけた知力もない。それなのに凍えた体が、痺れるように一瞬震えた。あまりの恐怖に、フランシスは声が出ない。 はフランシスの瞳を見つめて、今まで一番綺麗に笑った。 「あなたの、二人目のジャンヌになってあげる」 背骨に感じたことのない痛みが走った。腕は動かず、はフランシスから抜け出すとさっさと部屋を出て行く。追えなかったのは、彼女がもうすでに決めてしまったからだ。フランシスと離れることを、フランシスを救うことを、そのために自分がすべきことを。 予言のとおりに従い、生涯をまっとうした聖なる乙女の声が聞こえてくるようだった。恥じることもなく、悔いたりはしない、希望に満ちた将来を見通す瞳はいつだってフランシスを孤独にする。 「…………泣いてるの?」 突然、意識を浮上させられてフランシスは戸惑いながら声のしたほうに視線を落とす。見ると先ほどまで車の中にいた少女が、大きなクマを抱きかかえたまま真正面に立っていた。上着など着ていないワンピース姿は寒々しい。それなのに、その瞳のせいでフランシスは声がでない。けれど頬にあたる風が一筋の線を作るように冷たかったので、少女の言うとおり泣いているのだろうことはわかった。 「どうして泣いているの? パパは、もうだいじょうぶって言ってたのに。ママも、もうなにもかなしむことはないって言っていたのに。あなたは、なぜ泣いてるの」 焼きたてのパンも、あったかいお部屋も、手を繋いで眠ることもできるのに。少女は次々フランシスに言葉を続ける。小さいなりに貧困を学び、大人たちの様子に恐々としていたのだろう。両親の喧嘩や見たことのない争いも、彼女はその小さな体にしっかりと刻んでしまったに違いなかった。 フランシスは膝をつき、少女に腕を伸ばす。誘われるように身を寄せた小さな体を力いっぱい抱きしめると、柔らかな匂いに包まれた。 「…………お兄さんの大切な人が、いなくなってしまったんだ」 さよならなど言わなかった。子どもが欲しいと我侭を言い、ちっとも要領を得ない予言を残して彼女は去る。金髪で真紅のリボンが似合う天使に、フランシスはまだ会っていないというのに。 もう手など届かない。傲慢な神は彼女に救う力を与えたが、代価としてフランシスから彼女を奪った。謝罪も懺悔も聞いてもらえないだなんて、悲惨な結末過ぎる。 「…………救いたかったのは、俺だったのになぁ」 神の生誕を祝う町並みは、人々の幸福を表している。明日に希望を抱くこともできる今が、けれどフランシスにとっては絶望だけの世界に映る。町中が赤々と色づき、恋人たちは手を繋ぎ、家族は安心して眠りに落ちることができるのに、フランシスだけが取り残されている。 涙が溢れて止まらなかった。自分の手からすり抜けた幸福は、もう戻りはしない。 |
祈りを殺めた星の罰
(09.12.23)