ほんの一日だ。しかも24時間すべての時間連絡がつかなかったわけではなく、起きて活動し始めてうっかりケータイを忘れて出かけてしまったから帰ってくるまで彼と連絡がつかなかった。一日にも満たない、そんな数時間のうちに彼が何を思いどんな勘違いの果てにわたしの部屋に侵入したか、想像は難くない。
わたしは買い物袋を片手に、もう一方でこめかみをもみほぐす。わたしのベッドですやすやと眠りこけるアーサーの頬には、うっすら涙の跡がある。


「…………馬鹿だ」


彼は今日、大事な会議があると言っていなかっただろうか。偉い人に会わなければいけなくて、そのための資料を何日も寝ずに作っていたはずだ。他の国との協議も大詰めを迎えていると教えてくれたのはニュースで、そんなようすを必死に見せまいと虚勢を張ったアーサーの目の下に濃い隈があったことを見ないふりをするのには苦労した。
その何日もの集大成が今日ではなかっただろうか。確認のためにテレビをつける勇気はなかったが、わたしはとりあえずキッチンに荷物を運ぶことにする。当たり障りのないあたりで、アルフレッドにでも尋ねてみようか。そう思って元凶であるケータイを探したが見つからない。
まさか、と思い寝室にとってかえすと、アーサーの腕の中に抱かれるケータイがあった。


「乙女か…………」


いや、ケータイをへし折られなくてよかったというべきだろう。そんな乱暴をされたことはないが、もしされていたら間違いなく別れを申しだしていたはずだ。わたしはベッドに頬杖をつき、アーサーの寝顔をしげしげと見つめる。起きていれば小うるさく、皮肉屋で文句の多い彼は寝ていればそれなりに可愛らしい。
だが、起こすのは精神的な意味で疲弊することだろう。彼の勘違いをいちいち否定して、わたしの失態を謝罪して、たぶん泣き出した彼を宥めなければいけないに違いない。テレビをつけて事態を確認するより億劫のように感じるそれらに、わたしは鉛より重いため息を吐く。
どうして恋人のことを思っているのに、気持ちが塞ぐんだろう。ありえない。
ケータイを握りしめているのだから、彼は中身をばっちり確認したはずだ。こういうときのために下手にロックなどかけていないし、他の男性とメールのやりとりなどしていない。嫉妬深さと疑り深さへの改善は、もうすでに諦めてしまった。


「…………めんどう」


もし彼が起きたときを想像して―――きっと泣きながら罵られ、強く抱きこまれたあと散々なキスをされ、なしくずしに事が進んでしまうに違いない―――わたしはうんざりする。なによりも改めなければいけないのは、わたしたちの関係なんじゃないかと思う。
テレビをつけるのもケータイを確認するのも止めにしよう。どんな謝罪も彼には届かないに違いないし、言葉を尽くして慰めたって号泣するに決まっている。そんな未来に辟易したわたしは、けれどこの馬鹿で愚かな男を見限ることができない。
よくよく、わたしも愚かだ。


「ていうか、この人が離してくれるわけないか」


大きな独り言と共に、わたしは自分のベッドにもぐりこむ。ケータイを必死で握る彼の頭を抱くように抱きしめると、彼の体からわずかに力が抜けた気がした。馬鹿で愚かで、心底弱いこの人の精神を預けられるにはわたしの心はやや狭すぎる。その狭い心で精一杯彼を愛しているわたしは、沈没するとわかっている船に乗り込むようなものだ。終わりなど見えているのに、見ようとしていない。
終わるきっかけはきっと些細なことだろう。売り言葉に買い言葉で、もとから口の悪い彼に乗せられて別れを口にするわたしなど目に見えている。
わたしは深く息を吸って、ゆっくりと吐く。そして目の前にあるアーサーの頭をこつんと叩いた。びくりと彼が震え、ぱっと見開かれた瞳はすでに濡れた若葉の色をしていた。


!…………おまえっ!」


予想通りの怒号に、わたしは彼の唇をすばやく自分のそれで塞いだ。
驚いたアーサーがなにか言うよりも早く、わたしは静かに警告する。


「ケータイを忘れてごめんなさい。でも、そのことに関してこれ以上謝罪はしない。あなたの怒りももっともだと思うけれど、もし大きな声を出すのなら、わたしたちこれっきりにしましょう」


真剣な目で、これ以上なくゆっくりと言うとアーサーが顔を青ざめさせた。大きな声は大嫌いだ。わたしをかき消す怒号も、理不尽な責め苦も、耐えられない。
しゅるしゅるとしぼむようにアーサーがベッドに沈む。切れ切れに「おまえが」とか「連絡」、「心配して」などと聞こえた。彼も相当心が狭かったのだと今更ながらに思い知る。


「ごめんね、アーサー」


謝罪はしないと言ったくせに、わたしは謝る。けれどこれは彼の心の狭さをはかり間違っていたことに対しての謝罪だ。
アーサーは綺麗な緑の瞳からぼろぼろ涙を流しながら、細い腕でわたしを掴む。痛かったし加減をしろと言いたかったが、なんとか押し留めた。


「…………し、心配したんだぞ。ばかぁ」
「うん」
「あさっか、ら、連絡、なく、て」
「…………うん」
「な、にかあったのか、と」


うん。うん。うん。
素直に泣き続けるアーサーは、彼がどれだけわたしを心配したのか、そのために何を犠牲にしたのか、それなのに別れを切り出されるのはどうしてなのか、的確にわたしを責める。
この人はわかっているのだろうか。わたしたちはどちらも、お互いが思っているよりも心が狭い。狭いくせに独占されることが嫌いで、独占するのは好きだという矛盾点を抱えていることを、少しでもわかってくれるだろうか。
もう、わたしたちには両極端な道がふたつきりしか残されていない。


「ねぇ、アーサー」
「っく…………な、んだよ」
「わたし達、もう結婚するか別れるかしかないと思うんだけど」


閉じ込めてしまうか、もう永遠に手を離してしまうか。そのどちらかだ。
わたしが表情を硬くして彼を見ると、頬を赤くさせたアーサーに乱暴に抱きしめられた。頭の上ではまたひどいすすり泣きと、がらがらの声が張り上げられる。


「結婚のほうに決まってるだろ!ばかぁ!」


愚かなのも馬鹿なのもお互い様だ。わたしはアーサーの腕の中で、閉じ込めてしまえばもう逃げる必要はない、と思う。捕らえられていると思い込めば、わたしはどこへも行けないだろう。つまりは恋人同士の自由さが、問題だったのだ。結婚の不自由さがアーサーとわたしを救うかは、まだわからないけれど。
相変わらず泣き止む気配のない夫の背中を撫でながら、わたしはこの人の檻は大変に狭いのだろうと嘆息する。



















ひとつだけの泣き場所





(10.05.08)