単純に閉じ込められているのだとわたしは結論付ける。 朝、深く吸い込んだ空気は冷たく肺を凍らせるように澄んでいた。冬の空気は吸うたびに心をすっかり入れ替えてしまうほど清らかだ。わたしは毎朝、そのせいで新しい自分に着替えなければならない。見失いそうになる自分自身を、常に捕まえ続けていなければいけない。 「ヴェー…………」 隣で健やかな寝息が聞こえ、わたしはゆっくりとそちらを見る。フェリシアーノは頬をすっかり冷たくさせて、そのくせ幸せそうに眠っていた。あまりにも寒い朝で、まだ暖房はひとつもつけていないというのに。 わたしは彼の凍えた頬に唇を押し付けて、温かなベッドを抜け出す。彼のために部屋をあたためておかなければいけないし、朝食の準備だってしなければいけない。いつか、子どものころそれは母親がすることだった。わたしは目覚めると暖房のきいた部屋で、ゆっくりと満足のいくご飯を食べることができた。母親はそんなわたしを横で見ながら、とても満ち足りた表情をしていた。 例えるのならば、今、わたしは彼の母親なのだ。してあげることが自分へのご褒美になる。満足を得られる結果を出すには、指先が震えても包丁を握らなければならない。 わたしはそんな自分自身に笑ってしまう。包丁を握りながら、いつもそうするようにくつくつと声を潜めて笑った。彼のために尽力する自分を見つけるたびに、その滑稽さに改めて気付いてしまう。もっと若かったころの自分はそんなものが嫌いだった。与えられる以上の愛情を欲しがったし、損などしたくなかった。いつも勝者でありつづけるために、深くのめり込むことのない恋愛ばかりを繰り返していた虚しい日々。 「…………?」 寝ぼけた声がわたしを呼んだ。いつもより早い目覚めだ。フェリシアーノは半分瞳を閉じながら、片方の手でごしごしと顔をこすっている。 「おはよう。よく眠れた?」 「んー………」 「まだ眠いなら、もう少し寝ていたらいいのに」 耳に届いているかわからなかったが、わたしは微笑む。ちょうど母親のように、慈愛に満ちた声が出たはずだ。わたしは彼がそこにいるだけできちんと愛情を受け取っているような気になる。彼が繰り返す愛の言葉よりも、もっと明確に感覚的に享受できる感情の名前をわたしは知らない。 フェリシアーノはふらふらと歩きながらキッチンに侵入し、包丁を握るわたしの背中にぴったりと体を寄せた。まるで子どもが母親におんぶをせがむようだ。 「フェリ」 「んー……」 「わたし、包丁を持っているから危ないんだけれど」 んー…………。 返事をしながら胴にきつく回された腕に、わたしは観念する。 包丁をできるだけ彼から遠ざけて、肩にかかる彼の髪を感じた。 「…………起きたらいないから…………びっくりしたよー…………」 やがて小さく呟いた彼に、わたしは驚く。そんなことは日常だったはずだ。彼のベッドから抜け出して、朝の準備を始めるのはわたしの仕事だった。けれどフェリシアーノはまるでむごい仕打ちを受けたように傷ついた声を出すから、とてもひどいことをしたような気になってしまう。 「ごめんなさい。驚いた?」 「うん。…………のごはんは美味しいけど、いっつも頑張る必要ないんだよー?」 つやつやの髪に触れながら、わたしはフェリシアーノの愛情を受け取る。彼は嘘も真実も混ぜてしまわないから、それは常に正しい言葉だった。わたしが自分の母親のようになりたいと望み、けれど決して同じようにできないことを知っている。 「オレは君がいるだけで幸せなんだからー……」 幸せ。昔のわたしはそうなりたがっていた。狡猾に奪うものだと思っていたし、傷つくことなどせずに欲しがってばかりいた。フェリシアーノと出会ったとき、すでにひたすら傷ついていたというのに自分の信念を信じきっていた。 「わたしも、幸せ」 この世界でいったい何人の人が、朝キッチンに立っている最中に抱きしめてもらえるのだろう。まだ部屋はうっすらと冬そのものに寒々しく、朝食の準備は進んでいない。それでも恋人が目覚めと共に自分のもとに来て、愛を囁いてくれるのは何よりも幸福だとわたしは思う。そして、そう思えるようになった自分を誇りにも感じる。 「ねぇ、フェリシアーノ」 今日はカフェで朝食をとりましょうか。 わたしの提案にフェリシアーノは笑って了承してくれる。完璧な母親になるには、わたしはこの人を愛しすぎているのだ。愛して愛されて、多分、もう少しここで立ち止まっているのだろう。 「」 なに。ようやく顔をあげたフェリシアーノに振り向くと、あまりにも軽いキスが降りてきた。軽いくせにきちんと唇を味わうような、冷たい朝には最高のキスだ。 フェリシアーノは顔をゆっくり離すと、わたしの両目に彼が映っていることを確認して笑った。優しげで穏やかな、少しだけ頼りないいつもの彼だ。 「おはよう。」 閉じ込められているのだ。わたしとフェリシアーノは、同じくらい精一杯愛し合いすぎている。その愛情はこの部屋に満ちすぎていて、もうどこへもいけやしない。 行き止まりに気付いたら、わたしはきっと完璧な母親になってしまうのだろう。そして彼もまた、別の人になってしまう。ふたりとも別人になったのなら、今度は違う愛情をもてたらいい。わたしは彼に微笑みながら、自分がまたひとつ傷を負ったことを知る。 |
やさしさは
口を溶かして言葉を奪う
(10.05.08)