部屋の中は温かく、わたしに必要なもので溢れかえっているので安心できる。クッションを背中と壁の間に挟んでもたれながら本を読んでいるとほとんど満たされた思いがする。自分に過不足などなく、孤独でもなければ淋しくもない。本の中の主人公に思いを馳せれば、他はどうでもいいことになってしまう。


「…………さん?」


満たされた部屋でぬくぬくと平和に身を沈めていたわたしに、控えめな声がかけられる。障子の向こうに視線を向けて、わたしはひとりの時間が終わったことに若干の口惜しさを感じた。けれどそんなことはおくびにも出さずに返事をする。障子の向こうで律儀に返事を待つ彼に。


「どうしたの、本田さん」


入りなよ、と言うといくらか躊躇ったあとで、失礼します、と扉が開いた。


「焼き芋を買ってきたので、さんもどうかと思いまして」


本田さんの腕の中には茶色の紙袋があり、中を見せるように傾けるとおいしそうな焼き芋が顔を覗かせた。わたしは先ほどまでの平和など忘れて、彼に近寄った。本田さんはいつだって分けられるものは持ってきてくれる。分けられないものでも、必ずわたしに必要かどうかを問う。そして自分が欲しいときには物凄く申し分けない顔をする。
どこまで慎み深いのだろう、と女のわたしが首を傾げるほど彼は気を使う。細部まで行き渡る配慮も、彼ならではだろう。
ふたりで焼き芋を食べながら、ぽつりぽつりと会話をした。わたし達の会話はいつだって盛り上がることはない。特別に笑ったりしないし、長々と続くこともなく、切れ切れな会話はいつのまにか終わってしまう。それでも本田さんと一緒にいるときはひとりで部屋に取り残されたときに感じるあの平和な空気と、よく似ていると思う。


「本田さん」
「なんです。もう一本食べますか?」
「いや、もうお腹一杯だから遠慮します。…………じゃなくて、本田さんはどうしてわたしに会いに来てくれるの?」


疑問はするりと口を出て、あまりにも唐突に会話を変化させた。ずっと考えていたことではあった。彼はわたしに会いにきてくれる。本田さんの家に住まわせもらっているとしても、彼はわたしにとって大家というだけでそれ以外に役割はない。住むところがなくなったわたしに手を差し伸べてくれたのはただの同情だと思ったし、騙されてもいいと思うほどあの頃はすさんでいた。本田さんはいつだってわたしの予想の上を行く優しさをひたすらに与えてくれる。
本田さんは束の間動きを止めたあと、表情をなくしてわたしを見る。


「私があなたに出会ったとき、あなたはとても淋しそうだったでしょう」


黒曜石みたいな果てしない瞳は、すっぽりとわたしを覆っている。本田さんは続けた。


「淋しいと、全身で言っているようでした。私はそんな素直なあなたに惹かれたんです。…………少なくとも私は、あんなふうになれませんから」


あんなふう、というのはわたし自身のことを言っているんだろうが、あいにくそんな覚えはなかった。けれど本田さんに会ったとき、わたしにとって世界は理解できない敵だった。周囲はわたしのことなどわかってくれなかったし、わたしもわかろうとしなかった。押し付けるばかりで自分から歩み寄ろうとしなかったころのわたしに本田さんを惹きつける魅力があったなんて考えられない。
切りそろえられた髪を揺らして、本田さんは首を傾げる。


「私にはあなたの方が驚きでしたよ。まさか本当に一緒に住んでくれるとは思いませんでした」
「…………わたしも相当、キてたから」
「同じですよ。私もあのとき、そういう状況だったということです。…………でも今、あなたの存在は私にとって何より得がたい安心を与えてくれる」


瞳を細めてふんわりと柔らかく笑う本田さんは綺麗だ。元々小柄で体の線が柔らかだから、本当に優しい顔になる。わたしはこの人のこの顔が、とても好きだ。


「…………あなたといると心地いいので、足しげく通ってしまうんです。いつもいつも読書の邪魔をして申し訳ありません」
「いいよ。わたしって出不精だし、本田さんを迷惑だなんて思うわけがないから」


否定して笑いながら、自分が聞きたかったことが一体何なのかわからなくなる。本田さんは誤魔化すのが上手い人だから、わたしの聞きたい言葉など分かった上ではぐらかしてしまうだろう。この人の話術はお手玉みたいに、軽い音を立てて堂々巡りする。
焼き芋は残ってしまったので、明日にでもまた温めなおしましょうと本田さんは言った。今度は自分たちで作ってみるのもいいかもしれませんね、と付け足した本田さんは子どものような顔で笑っている。


「いいかもしれないね。ほら、この前きたアルフレッドさん、だっけ?あの人とか好きそうだよ」
「…………あぁ、好きそうですね。やたら騒がしくなりそうですが」
「テンション高くて目眩がしたけど、あの人も一緒なら盛り上がり」
さん」


会話を遮って本田さんはわたしの瞳をがっちりと捕らえた。わたしはそうされると動けなくなる。瞳に捕まってしまったわたしは、彼の言葉を待つしかない。会話を遮るだなんてことを滅多にしない人だから、わたしは一層注意深く彼を見つめた。
けれど一瞬の沈黙のあと、本田さんは唇の端をあげて笑う。


「焼き芋は、ふたりでやりましょう。それで成功したらアルフレッドさんも呼ぶ、ということで」
「う、あ、そう?」
「そうです。まずは何でもふたりで始めましょう。その方がずっといい」


同意を促すように首を傾げられたので、わたしはもちろん頷いた。本田さんはときどき少しだけ強引になることがある。犬が自分に付けられた鎖の長さを知ったように、わたしはいちいちハッとする。学習しないのではなく、彼の安堵はわたしの計り知れない場所にあるのだ。
わたしの平和がこの小さな部屋の中にあるように、彼の言う安心はこの部屋に囲われているわたしの存在なのかもしれない。
その方がずっといい。本田さんは確信を持って言ってくれている。


「ね、本田さん」
「なんです?」


静かな横顔は、いつだって特段の変化を見せない。わたし達の奇妙な関係は、きっとこれからも続いていくのだろう。どちらかが終わりを見つけない限り、わたし達は同じ方向を見て歩いていけるはずだ。
少なくとも彼の瞳に捕まっている間、わたしの平和は続く。


「実はスキーとかスノーボードみたいなウインタースポーツ、わたしやったことがないの」
「そうですか。じゃあ、今年あたりいい雪山を探しましょう。道具は全部借りて、気に入ったら買いに行くようにして、温泉に泊まるのもいいですね。……………………何を笑ってるんですか?」


やりたいともやろうとも言っていないのにさっさと予定を立て始める本田さんに、わたしは思わず噴き出してしまう。本当に「ふたりで」始めてしまうつもりなのだ。本田さんだって体を動かすのは得意じゃないはずなのに、それでも雪山に向かうとすぐに決めてくれる。
わたしの平和は部屋の中にあるけれど、幸福はこの人と共にあるのだろう。わたしは笑いながら、彼の予定に耳を澄ます。すべてがふたりで始まるのだから、わたし達は常に一緒にいなければならないのだ。
























そうして今日も歩いてゆけたら



(09.12.23)