エイプリル・シーズンについて聞きたいの。
わたしはそう声に出そうとしたはずなのに、声は音にならず喉を滑り落ちて胃の下のほうで固まりになってしまった。わたしはどうしてそんなことが起きたのかまったくわからず、かつ、どうしてこんなにも自分が不安になっているかわからない。


「どうしたんだ?」


突っ立ったまま呆然と見つめられて、部屋の主は怪訝な顔をする。わたしはもちろん「なんでもない」と言うつもりだったし、「だから」と切り出すことだって出来たはずなのに、どちらもやっぱり声にならなかった。
部屋の主であるユリウスはまったく要領を得ない顔をして首をかしげている。けれどそうしたいのはむしろわたしの方だった。なぜこんなところで棒立ちになって、足元さえもおぼつかなくさせる不安に溺れなければいけないのか。どうしてユリウスの顔を見ただけで、こんなにも理不尽だと感じなければいけないのだろう。
わたしは自分が不当な扱いを受けたかのように感じてしまう。それから、そんなことを感じてしまった自分がすごく恥ずかしくなる。


「とにかく、こちらに座れ」


手近な椅子を引いて手招きをされたので、ようやくわたしは行動することができた。わたしはむっつりと押し黙ったまま彼の隣に座る。足取りは重く、根っこでも張ったみたいだった。
かちかちかちかち。
わたしもユリウスも喋らないと、この部屋は時計たちの独壇場になる。その音に耳を澄ませると悲しいくらい気持ちが平らになった。この世界はでたらめに時間が過ぎていくので時計に大して気を使わないのだ。この世界で時計など持っていると変人扱いされてしまう。
わたしは瞳を閉じて、気持ちから離れない悲しみや不安をべりべりと剥がす。どうして不安がらなければいけないのだろう。理由などないのに。


「エイプリル・シーズンについて教えて欲しいの」


呼吸を整えてようやく言うべき言葉を吐き出すと、少しだけ身体が軽くなる。理由づけ出来ない悲しみはまだ残っていたけれど、ユリウスに何を言いたいのかもわからなかった。
どうして不安がることがあるのだろう。ユリウスはここにいて、部屋の中は随分平和で、すべてがとても懐かしいというのに、わたしの心ばかりが置いていかれてしまっている。


「エイプリル・シーズンについて教えて欲しい?」


次に要領を得なかったのは彼のほうだった。教えることなど何もないと言い放たれたので、わたしは彼との常識の誤差について改めて認識せざるを得ない。したくもない問答の果てにエイプリル・フールと同じ意味合いを持つことと、時間帯のように季節が変わることを聞き出したときすでに、わたしはひどく疲れていた。


「つまり、嘘の許される季節ということだ」


ユリウスがやれやれと言った調子で続ける。わたしはそのとき、自分の心臓が一際大きく鳴ったのを感じる。どくん。驚いて顔をあげユリウスを見るけれど、彼もまた驚いているようだった。わたしは自分が彼の言葉のどこに反応したのかまったく見当がつかない。けれど、今、ユリウスはとても怖いことを言った気がした。
嘘の許される季節。わたしは心臓の真上をぎゅうと握りしめて、突然の不安に耐える。


?…………どうし」
「邪魔するぞ。時計屋」


一度目のノックのすぐあと、扉が開く。グレイだった。
わたしは彼を見た瞬間、あからさまに安堵する。この部屋でユリウスと二人だけ、というのは物理的に苦しくてたまらなかった。以前はずっとふたりでいたはずなのに。


「どうしたの、グレイ」
「いや、先ほどのココアが余っていてな。君にどうかと思って持ってきた。それに時計屋も飲んでくれ」


お礼を述べながらわたしは立ち上がり、グレイの手元からカップを受け取ってユリウスに渡した。ココアは温かで指先の冷たさを嫌でも自覚させられる。わたしはもう一度きちんと椅子に座りなおし、ようやく心に張り付いた不安が薄くなっていくのがわかった。


「本当に、嘘みたいな話だね。わたしの世界で四季は一年を通してめぐっていくものだったのに」


でたらめで退屈のしない世界だけれど、安心させてくれない。安堵とは程遠いことなど知っているのに、わたしは理解ばかりを求めている気がした。納得できる理由が欲しくて、誰かにそうだと認めて欲しくて、わたしは尋ねる。


「…………アリスに、会ってきたらどうだ?」


静かにわたしを見据えて、ユリウスが言う。わたしは彼の瞳の静けさに圧倒される。目覚めて初めて見た雪よりも、もっと孤独な静寂がわたしを見ていた。
笑おうと思うのに、唇が乾燥して上手く笑えない。動揺する必要などどこにある。何度となく叱咤するのに、わたしの心は手綱を握れず暴走する。


「そうだね。きっと、アリスもびっくりしてるだろうし」


だから空々しく声ばかりが上ずった。誰に怯えているかなどわからなかった。ただ、怯えずにはいられないことばかりがわかっていた。わたしは立ち上がり、足元から這い上がる不穏な空気を蹴りだそうとする。


「…………歩くなら今のうちの方がいいが、大丈夫か?」
「大丈夫だよ。そんなに道は変わってないでしょう?」
「いや、そうではなく…………顔色が」


悪い。グレイが立ち上がったわたしの頬に触れて、額で体温を測る。わたしは大げさだなぁと笑っていたけれど、グレイの的を得ない心配の仕方が愛おしかった。
ユリウスは何も言わずに手元を動かしている。わたしはふたりからそれぞれの忠告を受けて――――厚着をするように、道に迷ったりしないように―――部屋を出る。グレイを残してきてしまったけれど、わたしはお構いなしに自分の部屋まで一直線に戻った。心臓は驚くほどの速さで鳴り響き、不安は喉元まで出掛かっている。
―――――――――怖い。
感じたことのない恐怖だった。この世界に落ちてきてしまったときや、帰れないことがわかったときとは別種の恐怖。手元にある中で一番厚手のジャケットを着込んで、わたしは大急ぎで塔を出る。まるで恐怖に追い立てられるように、わたしはいつのまにか走り出していた。




















臆病な



(10.01.07)