ハートの城は見渡す限り、桃色で覆われていた。自分の世界では随分見慣れていた桜が、そこかしこに咲き乱れている。わたしははらはらといくら落ちても枯れることなど知らないような桜の下でお花見をしている城の面々を見つけた。勝気な女王は彩色鮮やかな花々に負けず劣らず美しく、白兎の宰相閣下も多少不機嫌気味ではあるが相変わらず綺麗だ。けれど毒々しい赤いコートを羽織るエースさえも出席しているというのに、そこにはアリスだけがいなかった。


「アリス、いないの?」


だから落胆気味にそう呟いてしまった。もちろんわたしの発言を女王が聞き漏らしてくれるわけがなく、わたしは失言を訂正するためにさまざま苦労をしなければならなくなる。けれどどんな言葉を尽くそうと―――もちろんビバルディに会いにきたのだし、会えて嬉しいことや、今度こそ引っ越しだと思って会えなくなってしまうことを危惧していたこと――――、一度損ねた機嫌を直すことは容易ではなかった。加えてアリスが他の領地に遊びに行ってしまったことも気に食わなかったらしい彼女の相手は、本当に大変としか言いようなかった。キングが時折助け舟をだしてくれたけれどまるで役に立たず、面白がっていたエースがようやく連れ出してくれるまでわたしは息をつく間もなかった。


「…………駄目だなぁ。アリスに会えなかったからって、正直に言うなんて君らしくないぜ?」


はははっ。春の空に似合わない、渇いた声が耳にこだまする。わたしは彼の右手にしっかり握られた自分の左手を見つめた。まるで自分のものではないような、手だ。
エースがわたしを連れ出してくれるためについた嘘を、思い出せない。わたしはいよいよ自分が壊れかかっているのかもしれない、と思う。怖くなって立ち止まると遅れてエースも止まった。ビバルディやペーターは見えなくなっていたが、依然として周囲は桜だらけだ。わたしははらはらと舞い落ちる花びら越しにエースを見つめる。
エースはどうした、と聞かなかった。わたしはたっぷり彼を見つめたあと、やっと口を開く。


「エース。…………ユリウスが」


春だというのに、わたしの心は冬に置き去りになってしまっている。どうしてこんなに自分が動揺しているのかわからない。誰に、何に、どうして。わたしは自由になる右手で顔半分を覆う。


「ユリウスが、…………いた、よ」


何を言うべきか迷って、結局事実を述べた。これしか言うことなどなかった。ユリウスがいて、ナイトメアがいて、グレイもいて、塔は滞りなくいつものようすだった。わたしは冬やエイプリル・シーズンに戸惑っているだけであるのだろうし、だからユリウスは関係がない。
わたしは覆っていた手のひらをはずして、もう一度エースを見つめる。彼は、それこそ常の彼らしく掴めない笑顔のままだった。


「そっか。…………それで、どうした? ユリウスにひどいことでも言われた?」
「ユリウスは、ひどいことなんて言わないでしょ」
「でも、そういう顔してるぜ? 理不尽だって、顔」


理不尽。わたしはますますわけが分からなくなる。エースが言うように、わたしは理不尽だと思った。ユリウスに対して、この世界に対して、とてつもなく理不尽だと。
わたしは自分が自分でないように感じる。こんなふうに不安定で脆く、まるで精神を病んでいる患者のごとく弱い自分など見たことがない。
弱みなど見せてこなかった。この世界に落ちて、ユリウスに拾われた最初のころだけだ。怖いと泣いたのも、苦しいと叫んだのも、最初だけ。
わたしはアリスに会いたくてたまらなくなる。同じ余所者で、わたしより随分賢く可愛らしい彼女に吐き出したい。


「なぁ、。春の陽気に誘われて、俺と一緒に旅に出てみない?」


ぐっと手を引かれて、わたしとエースの距離は短くなる。わたしは目を瞬かせてよろめいた。わたし一人操ることなど造作ないことなのだ。エースはにっこりと笑っているが、わたしがにこりともしていないことは彼の目を見ればわかった。


「春は好きだけど、君とだったら季節を忘れて抜け出すのもいい」
「…………忘れなくていいし、抜けださなくてもいいよ」
「ははっ。相変わらず手厳しいなぁ。せっかく駆け落ちみたいなことができるかもしれなかったのに」


駆け落ちみたいなこと。わたしは唇の端が引きつって、青ざめるのがわかる。エースと駆け落ちなんて、崖をまっさかさまに落ちるようなものだ。崖だと思って飛び込む愚か者にはなりたくない。むしろ、その勇気など持ち合わせていない。
握られた手を無理やりほどいて、わたしは彼と距離をとる。


「ビバルディから助けてくれたことにはお礼を言うけど、駆け落ちなんてしません」
「ははっ。やっぱり駄目かぁ」
「…………とりあえずアリスを探さなきゃ。あ、エースも迷うのはほどほどにしときなよ。じゃないと、ユリウスに会う前に凍死しちゃうから」


じゃあね。手を振って背を向け歩き出す。エースが彼なりにわたしを励ましてくれたことはわかっていた。旅に出よう、だなんて言われて励ませるものだと思っているところが可笑しいが、とにかく彼はわたしを慰めてくれたのだ。エースの優しさはいつだって厳しさと隣りあわせで、形に表しにくい。


!」


いくらか進んだところで呼び止められた。わたしはゆっくりと振り向く。エースは先ほどと同じ場所で、まったく姿勢を変えずにわたしを見ていた。
桜の花びらが飛び回り、わたしは目を細めた。エースは口を開く。


「ユリウスは、ここにいる」


ざっと、風が音となってわたしを通り抜ける。髪を押さえつけながらなんとか瞳を開けると、エースは微動だにせずわたしを見ていた。エースの瞳に映るのは彼の真実だ。あまりにも剥き出しのそれに、わたしは戸惑う。彼の真実は、きっと受け止められない。


「…………知ってる」


呟くのが精一杯だった。わたしはまた踵を返し、今度は一度も振り返ることなくハートの城をあとにした。きっとあの桜の広場で、エースはわたしが見えなくなるまでその場を動かなかったことだろう。そんなことは見なくてもわかっていた。彼はそういう男なのだ。




























(10.01.07)