日差しを避けて森に入り、もらった日傘を片手にぶら下げながらわたしは歩く。自分の足がおぼつかなくなっていることは自覚していた。冬から春に出て、夏を通り越してきっと次は秋だというのになぜか気持ちはふさがったままだ。
以前は変化を自然に受け入れていたはずだった。わたしは必死に思い出そうとする。この世界に落ちてきて、ユリウスに拾われたとき、わたしは半分諦めていた。元の世界も自分自身のことについても、なんとなくぼんやり諦めていた。


「…………気持ち悪い」


考え始めると一層気分が悪くなった。わたしは手近な木にもたれかかり、ずるずるとそのまま膝をつく。頭の中は整理のつかない状態で、どうにかしようと思うほどぐちゃぐちゃになっていく。
エイプリル・シーズンについてはおおよそ理解できた。けれど、どうしても喉元に引っかかってしまう。それが何かだなんてわからなかった。理由がわからないのだから考えようもない。ぐるぐる目が回る思考は、身体をどんどん弱らせていく。
ぐったりとそのまま木によりかかって体重をかける。しばらく休めばまた歩けるようになるだろう。瞳を閉じると馴染んだ闇がわたしを受け入れた。


「…………いまさら」


何が起きたとしても動じないと決めたはずなのに、わたしは結局弱い。この世界に残ると決めたのは自分だし、もちろんそれまでに様々な出来事があったにせよ、きちんと責任を取るつもりだった。残る決意、捨てる覚悟、そして抱えていくものへの葛藤。覚悟したときには思いつかなかった罪がいつか自分を苛むであろうことは、わかっていた。悩んで苦しんでうっかり帰りたくなることもあるかもしれない、と。
けれど残ると決めた日から何度となく苦しんだ結果、わたしはまだここにいる。


「…………やぁ、お嬢さん。大丈夫?」


一向に気分はよくならなかったが、わたしはかけられた声に反応してまぶたを開ける。ちらりと視線を走らせると、知らない男が肩膝をついてこちらをのぞきこんでいた。わたしはその男に顔があることを確認する。この世界では顔があることが、とても重要な意味をもつ。


「あー……答えるのも辛いみたいだね。喋らなくていいよ。気分が悪そうだ」


男はわたしが答えないので勝手に納得したようだった。奇妙な男だ、とわたしは素直な感想を持つ。服装だけなら遊園地に負けておらず、被り物は帽子屋屋敷の面々以上だ。まるでピエロみたいな服装の男は、親しげな笑みを浮かべている。


「…………ごめん、なさい。…………だいじょうぶですから」


迷惑をかけるわけにはいかなかったし、なにより素性の知れない相手についていく気はなかった。わたしは無理やり足に力を込めて、立ち上がる。しがみつくように幹に腕をかけて、男に視線をあわせた。


「帰って休めばすぐに直ります、から」
「へぇ…………そうは見えないよ。


名乗っていないのに名前を呼ばれてわたしは目を見開く。ピエロのような格好の男は、いたずらが成功したかのように楽しげに喉を鳴らした。


「名前を知っていて驚いた? もちろん知ってるさ。君は有名人だ。珍しい余所者がふたりもいるんだからね」
「…………そう」
「それで君は? 俺の名前を知っている?」


立っているのがやっとだと言うのに、男は悠長に問い返す。わたしは朦朧とする意識の中で「知らない」と答えた。ぶっきらぼうな声は果たして彼に届いたかはわからない。霞がかかったようにはっきりしない頭の中のせいで、考えることが一切できなくなっている。
男は一瞬申し訳程度に残念そうな顔をしたあと、ぱっと表情を変えて一礼した。


「では自己紹介だ。俺は見ての通りジョーカー。このサーカスの森は俺ので、君は不法侵入者ってことになる」
「…………」
「でも今は、緊急事態かな? 君は辛そうだし、今にも倒れそうだ」
「……………………」
「随分考えたんだね。辛いだろうに無茶をする。…………考えないようにしてあるのに、ルールを破ろうとするなんて」


ルール。聞きなれた単語に反応して男――――ジョーカーを睨むと彼はくつくつと笑った。面白そうな、見下されたような、どちらにしても自分が見世物になっていることは変わりない笑い方だ。


「可笑しいなぁ。。君は強い」
「…………」
「強くてまっすぐで曲げられない。とても扱いにくい子だ。…………でも、もうおやすみ。少しでいいから目を閉じて…………」


ジョーカーの声は優しげだが、有無を言わせない迫力があった。わたしは彼の腕が近寄るのを最後まで嫌がったが無駄で、両目を覆われると同時に意識が遠のくのを感じる。強制的な眠りだとわかったが抗うことなどできなかった。
身体の自由がきかないので、わたしは真正面から倒れ込む。けれど地面と激突する前にジョーカーが支えてくれたので、衝撃は訪れなかった。


「もうすぐアリスがここに来る…………それまで、どうかおやすみ」


難しいことは考えなくていい。辛い記憶なら蓋をしてしまえばいい。悩む必要などないのなら、考えたって仕方ないだろう。ジョーカーはさまざまな言い方で、わたしに語りかける。悔しいのは彼の言っていることが正論だからだ。この世界に過不足はなく、悩む必要などどこにもない。抵抗しているのはわたしの心ひとつきりだ。
けれどユリウスの言葉に明確に感じた恐怖をなんと説明すればいいのだろう。あの直感はわたしに何かを伝えたがっていた。違和感をそのままにしてはいけないと、訴えていた。
わたしの抵抗は長く続かなかった。重たく苦しい身体を投げ出して、わたしは意識を宙に手放す。遠くでジョーカーの笑い声がしたけれど、もう何の感情も湧いてこなかった。


























あれもこれもんで溺れて沈む



(10.01.07)