諦めることは得意だ。わたしは現実世界が考えるほど上手くいかないことをきちんと知っている子どもだった。勉強や習い事、自分が持ちえる才能が人より秀でていないことを熟知していたし、そのために割り振られた役割も理解していた。わたしは居間に備え付けられたテレビの前でそれを学び、ブラウン管の向こう側を別種の世界だと思い込もうとした。わたしがここにいるから、向こうの世界もあり続けることができるのだ。 だから人並み以上の幸せを願おうだなんて思ったことはない。ただ平凡であればよかった。救いようのない残酷な事件や事実が世間に溢れかえっているのは知っていたから、それ以下にならなければ上々だった。テレビに映し出されるようなことは、どちらにしても避けねばならない。 挑戦することを諦め、進むことを諦め、無難に生きていければいい。人ごみにもまれながらわたしは考えていた。短いながらも悟った結論は、あまりにも惨めだと自覚もしていた。 それなのにどうしてあんなにも強く願ってしまったのだろう。この世界に落ちてきてしまったきっかけは、わたし自身にあったのだ。 ―――――――――誰かの特別になりたい。 心の奥、自分でも知り得なかった場所から湧き上がったあの思いを誰かに説明することはできない。渇望した、というのが一番的を得ているかもしれないが、これもまだ生ぬるい。わたしはそう感じた瞬間に居てもたってもいられなくなったのだし、ひどく悲しくなった。心の渇きを覚えたのは初めてだったので、潤す術など知らなかった。持て余された激情は、わたしの心をかき乱していく。わたしは時折泣きながら、これからもずっとこのままなんだろうと切なく思った。欲しいものが手に入らないことなど、知っていた。 「…………」 淋しい記憶に包まれながら瞳をあけると、心配そうなアリスが迎えてくれる。わたしはまた大切な友人に心細い思いをさせてしまった。寝かされていた場所から起き上がり、わたしはそのままアリスに抱きつく。目覚めて雪を見た瞬間から、こうしたかった。 アリスは柔らかでいい匂いがする。 「アリス」 「…………」 「クローバーの搭は、冬だよ」 「えぇ。城は春ね」 「エイプリル・シーズンて言うんだって」 「聞いたわ。またわけの分からないルールも追加されているみたい」 嘆息と共にアリスはわたしに説明してくれた。彼女はすでにジョーカーと話をしたらしい。ジョーカー。によれば季節を変えることができるのは自分だけであり、季節が固定すれば自由に行き来さえできなくなる。季節を変えるためにはジョーカーとカードゲームに勝つ必要があり、そうでなければ他の季節に移ることはできない。 わたしは話を聞き終えて、アリスに抱きついたままくすくす笑う。アリスが始終怒ったような口調で話すせいだった。ジョーカーの言い方が気に食わなかったらしい。友人に会うために、いちいち誰かに許しを貰わなければいけないなんて馬鹿げてる。なんてアリスらしい優しい感想だろう。 「アリス」 アリスの説明を聞き終えて、わたしは彼女の髪に鼻先を埋めながら小さく零した。 「わたし、とても怖かったの」 「…………怖い?」 「うん。理由なんてわからないし、だからただの思い過ごしなのかもしれないんだけど、とても怖かったの」 季節が変わり、懐かしいはずの雪を見て恐怖を感じた。頭の中の靄は薄れていたけれど、違和感は残ったままだ。アリスはわたしの背中に回した腕に、力を込める。 「大丈夫よ。だって引っ越しみたいに誰もいなくなったりしていない。見たでしょう?」 確かにわたしは確認した。遊園地にはゴーランドがいたし、クローバーの搭にはユリウスがいる。帽子屋屋敷にもアリスは行ったのだから、彼女の言うとおり欠けたものなどないのだろう。満ち足りた空間の中で、どうしてわたしだけがこんなにも浮いてしまうのかわからない。 「うん…………」 「だから、大丈夫よ。…………変な人が増えたくらいだわ」 「ひどいなぁ。変な人って俺のこと?」 しゃっと布のこすれる音を響かせて、ジョーカーが現れた。わたしはそこで始めて小さなテントに自分がいることを知る。周りには簡単な医療器具が置かれているから、簡易病室なのだろう。わたしはアリスから腕を離して、ジョーカーを見据える。お礼を言うべきかどうか迷って、結局頭を下げた。気分は随分良くなっていたし、助けてもらったことに変わりはないから。 「運んでくれてありがとう」 『そうだぜ。せいぜい敬え』 甲高い、あきらかにジョーカーではない声が返答した。わたしは眉を寄せて首を傾げる。ジョーカーは罰が悪そうな顔をして頬を掻いた。 「あー……ごめん。口が悪いんだ」 「…………あなたが?」 「違うわ。。ジョーカーの腰の仮面よ」 すでに経験済みらしいアリスが指差すと、ジョーカーの腰の仮面がケタケタ笑い出した。思わずびくりとしてベッドの上で引き気味の体勢をとってしまう。 『おいおい。その反応はないだろ。仮にもベッドまで運んで友達まで呼んでやったってのによ』 「…………ジョーカー。今きみが言ったことをすべてやったのは俺なんだけど」 『いいだろ、ジョーカー。お前がやったってことは俺がやったってのも同じだ』 まばたきを繰り返し、わたしは変わった笑い方―――ケケケ、と仮面は笑った―――をする小さな仮面を見つめる。小さくて白い仮面はエースの持っているものとは少し違っている。それに薔薇が飾られているのも、おしゃれだ。 わたしの視線に気付いたのか、仮面が動いたような気がした。 『なんだ、アンタ。俺のことが好きなのか?』 また繰り返される笑い声。わたしは一瞬唇に手を添えて考えてから、口を開く。 「好きかどうかなら…………好き、かな。面白いし」 『は?』 自分から聞いたくせに仮面はつっかえた。それから歯切れ悪く口の中でごにょごにょと言い始める。隣でアリスが驚いたように目を見開いたのがわかったけれど、わたしは思ったことを素直に口に出しただけだ。どちらもジョーカーという名前らしいが、こちらの仮面の喋り方は気分がいい。嘘もなく隠していることもない、気持ちのいい話し方のように思えた。 『そ、そっか。アンタなかなか見る目があるじゃねぇか』 「そう? ありがと」 「なんだか誤解してそうだけど…………まぁ、いいか。、アリス、こっちのジョーカーはともかく俺には会いにきてよ」 にっこりと笑った顔は清々しい青年のようで、わたしは瞳を細める。彼の言葉に隠された、偽りをみつけようとするように。 「季節を変えたくなったら来なよ。待ってるから」 笑顔を崩さず、ジョーカーはわたし達を見送った。小さなテントの隣には本営だと思われる巨大なテントが張られている。黄色、赤、黒、とりどりに染められたサーカスは扉の森のように騒々しく色づいている。 いつもと同じような森を歩きながら、けれどもうすでにすべてが変わり果ててしまったことを感じた。扉の森にはサーカスの風船や人形が横たわり、まるでおとぎ話のように飾り付けられている。 隣で歩くアリスは何を思っているのだろうか。わたしは彼女の横顔をちらりと見て、感じる違和感について尋ねようか迷う。アリスも同じように感じていてくれたら嬉しいけれど、むやみに心配をかけたくはない。ジョーカーに助けてもらってから頭の中の霧は随分薄くなっているようだが、まだ考えようとすると頭痛がした。 「?」 どうしたの、とアリスが首を傾げるのでわたしは笑った。 「大丈夫。なんでもない」 もうしばらく自分だけで考えよう。アリスがいてくれるだけで充分だ。彼女の言うとおりこの世界には欠けているものなど何一つなく、わたし達は満たされているのだから、わたしひとりの動揺など杞憂であればいい。 |
棘を押し込む
(10.01.07)