「ごめんなさい。もう一度言って」


寒くて耳がおかしくなったのかと思い、わたしは問い返す。耳を疑うとはこのことだ。言っている意味が理解できない。わたしは、目の前で飄々とする男の顔を信じられない思いで見つめた。
けれどユリウスはわたしの思いなど知らぬように、眉ひとつ動かさず答える。低くて明瞭な、少しだけ不機嫌にさえ聞こえる声。


「ここから出ていけ、と言ったんだ」


一言一句たがえずに、ユリウスは言ってのけた。わたしはその言葉の重さに身体を支えきれなくなる。目眩がしたが、なんとか立っていられたのは奇跡だった。
出て行け。何度考えてみても、意味など変わらない。わたしは頭を押さえた。


「それは、クローバーの搭を、ということ?」


馬鹿みたいに問い返したわたしは、まだ信じたくなかった。ユリウスがそんなひどいことを言うはずがない。そう信じたかった。それとも、知らないうちに彼に何かしてしまったのだろうか。
アリスと別れてクローバーの搭にまっすぐ帰って、一番はじめにユリウスの部屋を訪れた。本当は帽子屋屋敷にも回ろうとしたのだが、具合が悪いのだからとアリスに説教をされたので戻ってきたのだ。だから、帰ってきたことを報告したら休もうと考えていた。それなのに、ユリウスは部屋に入ったわたしが「ただいま」と言うなり「出て行け」と返した。会話は成立していないし、気に障ったとしても理由が見つからない。
出て行け。気持ちの奥で、彼の声がリフレインする。


「そうだ。クローバーの搭を、お前は出て行くべきだろう」


ユリウスの声は落ち着いていて、どこも変わってなどいなかった。もっと不機嫌があらわになっていたり、怒っていればいいのに、彼には変化がない。だから言われている意味がよく飲み込めない。
出て行くべきだろう。なぜユリウスにそんなことを言われなければいけないのだろう。だんだんと腹が立ってきて、わたしは彼を睨んだ。


「どうして、出て行かなければいけないの」
「では聞くが、どうしてお前はここにいるんだ?」
「それは…………」


逆に問い返されて、わたしは言いよどんだ。ユリウスはまっすぐ見つめてくる。
時計塔から弾かれたんだから、クローバーの塔に残るのがセオリーじゃないのか。
引っ越しがすんで、わたしがまだ元の世界に帰ると決めていたときナイトメアが言った言葉を思い出す。我侭のような言い分に、わたしはほだされてしまった。残ると決めて、はじめに彼を思い出して自分から願い出たのだ。この塔で、働かせてほしいと頼んだ。
けれど本当に自分で決めたのだろうか。ナイトメアが言ってくれたのはきっかけだ。けれどそのきっかけも、わたしが元々時計塔にいたからに他ならない。
その時計塔も、わたしには仮宿にすぎなかった。元の世界に戻る決意をしていたわたしは彼とある約束をしていたのだ。


「ひとところに留まれば…………この世界はお前を留めようとするだろう」


ユリウスの唇がすべらかに動いてわたしは身体を竦ませる。この世界に捕まえられないように、ユリウスはたくさんのことをわたしに教えてくれた。けれど結局、わたしはここに残ることを決めたのだ。彼にだって残る理由は話した。それなのに、どうして今更そんなことを言うのだろう。心がズタズタに切り裂かれるような痛みに、わたしは胸元を押さえる。苦しくて声にならない。


「お前を留めた何かが、本当にここにあるのか?」


理由。わたしはユリウスの言いたいことをうっすらと理解する。
理解したせいで悲しくなり、それ以上にわたしは落胆した。


「理由がなければ居てはいけない? わたしがこの世界に残ったのは、みんなが大切だからって言ったじゃない」
「それは知っている。まったく正気の沙汰ではないがな」
「なら…………」
「だがあのときのお前は正常ではなかった。勢いで言っていただろう。…………もう一度考えるにはいい機会だ」


考える。わたしは先ほどまでの頭痛を思い出す。もう当分、考えることも悩むこともしたくなかった。何一つ欠けていやしないのに、どうして自分から安定を手放さなければいけないのだろう。どれかひとつを選んだら、もう何も選べなくてなってしまうというのに。
わたしは瞳を閉じて、呼吸を整えた。悲しかったが涙は浮かんでこなかった。たぶん、悲しみ以上に淋しくてわたしは絶望に近い状態にいた。


「…………ユリウスは、わたしがいなくても淋しくないんだね」


彼にとっては面倒ごとが増えただけなのだろう。ユリウスは瞳をまっすぐにわたしに据えたまま、眉間に皺をよせる。


「そうは言っていない。お前は流されやすいんだ…………今だって、私の言葉に流されている」
「ユリウスがわかってくれないからでしょ」
「私は聞いているだけだ。本当にお前が選んだのか。もう一度、立ち止まって考える必要はないのか」


出て行けと断言したくせに、彼はいけしゃあしゃあと言い直した。
本当にわたしが選んだのか、だなんてひどい言い方だ。まるでユリウスがいなければ何も決められなかったあのときから成長していないと言われているように聞こえる。
わたしは唇を引き結び、ユリウスを睨みつけた。


「わたしは考えた上でここにいるの。仕事をして、なんとか自立しようとしてるのに」


自立。ここで生きていく人間として、きちんと居場所を確保しなければならないと焦っていた時期があった。仕事をして、お給料をもらって、人間関係だって一から作り直さなければいけなかった。それなのに、彼はあっけなくそれらを無かったものにしてしまう。努力も葛藤も、まるでわたしに降りかからなかったように見えるのだろうか。
わたしは怒りを身のうちに燃やしながら、冷静にユリウスを見つめていることに気付いて驚く。絶望に冷えた心臓は、ただユリウスを拒絶していた。わたしは胸元で光る歯車をゆっくりと首からはずして、彼の机に置く。


「返します。…………ずっと、わたしを守ってくれてありがとう」


そのまま踵を返して足早に部屋を出た。もう一秒だってユリウスの傍にいたくなかった。罵倒しなかったのは唯一の救いだろう。わたしはそれほどまでに絶望していたのだし、失望していた。悲しくて淋しくて、自分をつくっていたパズルのピースを砕かれたような思いがした。
さむい。
クローバーの塔は石造りだから、廊下はとても冷える。わたしは両腕を抱きながら、自分が震えているのは寒さのせいだと言い聞かせる。せっかく欠けたものなどなかったのに、失ってしまったことは明白だった。その淋しさが悲しくて、わたしはしばらく廊下の端で震えながら歩く。





















水を濁す墨の一滴のように





(10,01,15)