眠っては駄目。
自室に引き返しベッドにもぐりながら、言い聞かせる。気分は最悪だった。正体などなくなるほど怒っているのに、一方で冷え切った思考が淡々と気持ちを分断していく。ひどく混乱しているのは自覚していた。こんな状態のままで眠ればナイトメアに気付かれてしまう。彼はまるでわたしの係りつけの精神科医のように口うるさい。夢身が悪ければいつだって救い出してくれたし、気持ちが高ぶっていれば心を読まれた。加えてわたしにはもう彼に対する壁がなくなってしまっている。ユリウスにもらった歯車のペンダントはナイトメアに心を覗かせない効力を持っていた。けれど、もうそれは手元にはない。
―――――――返します。今まで守ってくれてありがとう。
嫌味や口げんかのとき、わたしはいつも丁寧な口調になる。しかも頭が冴え冴えとして、相手のことも自分のこともきちんと理解できているときは尚更だった。だからわたしはあのとき、ユリウスの言っている意味と自分の答えがまったく食い違っていることを知ってしまった。随分一緒にいたのに、とっつきにくく口の悪い人だったけれど、通じ合う部分があると信じていたのに。


「…………ばかみたい」


信じていた、なんて子どもの言い訳だ。全幅の信頼を置いていたとしても、そんなものはわたしが勝手にそうしていただけであって彼に非はない。嘘をつかないでと約束をしたわけではないし、裏切らないでと念を押したわけでもなかった。
だからわたしがこれほどまでにユリウスについて失望するのは、お門違いなのかもしれない。
横向きになり膝を抱えて小さくなりながら、わたしは目だけはしっかり開ける。布団の中は徐々に温かくなっていたけれど依然として体は冷たいままだ。部屋の暖房器具はつけていなかった。
夢見が悪かったわけでもないのに、視線の先に憂鬱がいるのがわかった。勝手に傷ついたくせに、わたしはやはり自分への扱いが不当だと感じている。憂鬱はわたしをじっと見つめ、うっすらと笑っているようだった。
弱くなっているのだろう。優しい世界でお嬢様のように扱われてきたせいで、彼の言葉が本当のことと思えないでいるのだ。元の世界ではずっと吹きさらしの中にいたくせに、ずっとぬるま湯につかっていたせいで傷つきやすくなってしまった。優しい言葉をかけてもらえるのが当たり前になってしまったのかもしれない。


「…………でも」


傷ついたのは、自分に対してもだ。わたしはユリウスの問いにすぐ答えられなかった。
―――――――――お前を留めた何かが、本当にここにあるのか?
あると答えられなかった。もしあると答えていたら、何を具体的にあげられるのだろう。
もともと形のあるものがわたしを留めたわけではない。帰れたのに帰らなかったのは、つまり帰るよりも大事なものがあったからだ。直感と行動力で、わたしはここを選んだ。元の世界においてきてしまった誰かに問われたのなら、わたしは竦んで動けなくなってしまったことだろう。けれど、ユリウスに問われたときわたしは純粋に苛立った。
自分勝手で横暴な、わたしの思考は幼児のようだ。久しぶりの口げんかはひどく苛立って、時間がたつほど落ち込んでいく。
がばり、と布団をはがしてわたしは冷たい部屋の中央におりたつ。動いていなければ悪い方に考えてしまいそうだった。ジャケットを羽織って扉を出ると、部屋と同じくらい冷えた廊下を歩く。先ほども歩いた廊下で、わたしは憂鬱とすれ違ったような気がした。

















* * * * * * * * * * *

















かなり早足で駆けるように歩いたせいか、わたしはまっすぐに森を抜けることができた。ジョーカーの言うことが本当なら季節が固定されれば、冬以外の季節にはおいそれと行けなくなってしまう。わたしは足元にばかり目を配りながら、上がる息のまま歩く。すると視界がいっきに開け、目の前が赤く染まった。
大量の紅葉が視界を覆っていた。わたしは首を傾けて真っ赤に染まる木々を仰ぐ。緑の部分はまったくなかった。紅葉も盛りといった調子のそこは、まさに別世界だった。いつもの帽子屋屋敷が、色づき華やいでいる。わたしはしばらくその光景を見つめていた。はらはらと舞い落ちる木の葉は、ハートの城の桜と一緒だ。いくら落ちても冬枯れのような有様に成り果てることはない。
単純に綺麗だった。山一面が紅く染まり、地面いっぱいに敷かれた落ち葉の絨毯がかさかさと音をたてている。時間帯はいつのまにか夕方になっていたので、それがいっそう美しく秋を引き立てていた。


「あー! !」


ぼうと空を見上げていたわたしは、突然地面に押し倒された。何がなんだかわかぬままにまばたきをしていると、目の前に顔が現れる。大きな丸い耳を持ったピアスが、満面の笑みでわたしに覆いかぶさっていた。


! どうしたの、こんなところで!」
「…………ピアス」
「俺はね、俺はね、ボリスに苛められたから屋敷に逃げてきたんだよ。でもやっぱり双子にも苛められて…………仕方ないから美味しいチーズでも買って帰ろうかなって思ってたんだ!」


嵐のように捲くし立てるピアスは、苛められてきたという割りに機嫌がいい。わたしは押し倒されているというのに全く緊張感もなく、憂いもなく笑うピアスを見ていた。彼の笑顔はいつだってそのままの感情だ。偽りや見せ掛けのものではなく、楽しいから笑っている。
身体を起こす気にはなれなかったので、わたしはそのままの体勢でいることにした。ピアスは体重をかけないでくれるから、支障はない。


「そっか。遊園地は夏だもんね」
「うん! あ、ってばオーナーさんに会ったのに俺には会っていってくれなかったよね。ずるいよ!」
「ごめんごめん。ちょっと体調が優れなくて」


わたしはいつのまにか笑ってしまっていた。先ほどまであんなに憂鬱が身体の中を支配していたのに、もうすっかり形をなくしてしまっていた。ピアスはいつだってわたしの驚くことばかりをする。息もつけない真実を、ただまっすぐに渡してくれる。


「でもよかった! 会いたかったんだ!」
「…………え?」
「すごくすごく会いたかったんだ! 会えてよかったぁ!」


ほうら、わたしはいつも予想ができない。ピアスは言うなり仰向けのままのわたしに抱きつく。お人形さんに抱きつくみたいな、動物が気に入った獲物を傍に置いておくような乱暴さではあったけれどその力強さにわたしは泣きたくなった。瞳の奥でまたたくような光がちかちかと走ったあと、わたしは全身の力が抜けるのを感じる。優しい世界で特別に扱われているくせに、こうやって言葉にされることに極端に弱いわたしは愚かだと思う。


「おい!てめぇ、ピアス!何してやがる!」


あまりにも気持ちのままに抱きしめてくれるので、わたしは彼の背中に自分の腕を伸ばしかけていた。けれどそれは突然の大声で中断され、のしかかっていたピアスは宙に浮く。
ちゅ〜と困ったような鳴き声の背景には彼の首根っこを捕まえたエリオットが立っていた。瞳が笑っていない、とわたしは瞬時に理解する。青く澄んだ瞳はピアスと同じく感情を隠すことはない。


「てめぇ、に何してた?こんな往来のど真ん中で」
「ぴっ! え、エリーちゃん何を怒ってるの? 俺はに会えて嬉しくて、ぎゅーってしてただけだよ?」


素直な動物同士、これまた事実どおりの会話が進められていく。もちろんピアスの言っていることは事実でそれ以上ではなく、またエリオットの言っていることも事実だった。落ち葉の絨毯でわかりにくいが、ここは道の真ん中だ。いくら帽子屋屋敷の周辺は人通りが少ないと言っても、ふたりして寝転んでいい場所ではない。
がちゃ。嫌な音がしたと思ったときすでに、エリオットの手には銃が握られていた。


「ちょ! ストップ!」
「…………。止めなくていいぜ。あのまま俺が来なかったら、アンタ何されてたかわかんねぇだろ」
「いや、あのままの展開から進みようがなかったと思うのでやめて」


エリオットの頭の中で何が繰り広げられているかわからないが、ピアスとわたしがじゃれあう以上の関係にあるなんて笑ってしまう。あの力強い腕には安心したけれど、きっとそれ以上に心が不安定だったせいだ。
わたしは服についた落ち葉を払って、同じようにピアスについたものも払う。隣でエリオットが面白くない顔をしていたので、きちんとお礼を言うことも忘れなかった。


「ありがとう。でも、こんなところまでどうしたの?」
「ん? …………あぁ。また双子がサボってるんで探してたんだよ」
「そうなんだ。…………じゃあ、わたしも一緒に探そうかな」
「えぇ?! いいよ。双子なんて探したら危ないよ!」


まるでライオンでも探しにいくような怯えように、わたしは彼の頭を撫でる。大丈夫だから、と言って聞かせ、けれどピアスは帰ったほうがいいと諭した。双子と会えばまたピアスが泣くのは目に見えているし、また不毛で体力を消費するやりとりが始まるのは避けたかった。
やっとピアスを納得させチーズを買いに行かせると、隣に立っているエリオットはまだ面白くなさそうな顔をしていた。わたしはわざわざ話を蒸し返すのは嫌だったので、気付かないふりをしてくるりと身体を反転させる。


「さ、行こうか。ディーとダムなら裏の林が有力なんじゃない?」
「…………」
「あー、でも案外部屋で罠を作っていたりするかも」



硬質な声に、わたしは振り向かずに笑おうとする。けれど、返事は音にならなかった。後ろから伸びた腕がすっぽりとわたしを閉じ込めてしまったからだ。わたしは自分の前で交差する腕がエリオットのものだと理解したことよりも、彼の身体が大きいことに驚く。


「アンタ、ピアスには随分優しいよな」
「…………そう?」
「そうだ。だって俺やブラッドがあんなことしたら、怒るだろ?」


例えが悪すぎだ。わたしは目眩を起こしそうになる。エリオットやブラッドに襲われたなら、わたしは力の限り抵抗するだろう。自分の身は、おおむね自分で守らなければならない。冗談でも性質が悪いブラッドや、思い込んだら一直線のエリオットに捕まってしまえば先は見えてしまう。


「…………あれはピアスなりのスキンシップでしょう」


言いながら、わたしはまた頭の中に霞がかかっていくのを感じる。怖いのは、あやふやになっていくことかもしれない。すべてがうやむやになってしまったら、今度こそユリウスの問いに答えられないだろう。
ふらりと身体が揺れたけれど、エリオットに固定されていたので倒れることはなかった。


「ど、どうした? アンタ、ふらふらしてるじゃねぇか」
「…………ちょっと、気分が悪いだけ」
「あぁ! そうだ、アリスがアンタのこと話してたんだよ。具合が悪そうだからしばらく来れないって言われてたのに、忘れちまってた!」


悪い、と言いながらエリオットが腕をはずそうとするのでわたしは思わず彼の腕を掴んだ。抱きしめられているのは心地よく、温かい。


「…………?」
「ちょっとだけこうしてて。すぐに良くなるから」


体重を預けるようにしてもエリオットはびくともしない。わたしはまたこのウサギさんの優しさに甘えた自分を恥知らずだと思う。いつだって変わらずに慕ってくれるエリオットの優しさにどれだけ甘えれば気が済むのだろう。それなのに、わたしはこれ以上踏み込まれたくないとも考えているのだ。踏み込んではいけない人、荒らしてはいけない人、わたしにとってエリオットはそういう場所だ。
エリオットの腕はほどよい力加減のまま、わたしを包んでくれている。傷ついた場所を埋めるように、エリオットの優しさが染み込んでいくようだった。自分が幸福であるとわかるのはこういうときばかりだ。会いたいと言ってもらえて、こうやって手を貸してもらえて初めて幸福だとわかる。わたしは目の前に差し出されないと認識できないのかもしれない。アリスの言うとおりここには何もかもが揃っていて、正しく幸福であるはずなのに。





















祈るように抱き締めて






真っ直ぐ上へ投げて






(10.01.15)