「なにそれ、ひどいわ」


あらかたの説明をし終えたあとに、アリスは言葉とは裏腹にひどく悲しそうな顔をしてそう言ってくれた。わたしはアリスがそんなふうに言ってくれることと、そんな表情をしてくれることに安堵する。卑屈だが、同じ感情を共有している気になった。
説明と言ったところで自分自身でも話していてわからなくなったのだが、ユリウスは本当に唐突だった。あのときのわたしに「出て行った方がいい」理由などなく、彼にだって言う権利はなかったはずだ。まだここに飛ばされたころは何だって従っていたけれど、もうそんなときは過ぎ去ったことをわたしもユリウスもお互いに知っていた。
だから余計に可笑しく思う。どうして彼はあんなことを言ったのだろう。


「わけがわからないでしょう?」
「本当ね…………ユリウスは怒っているみたいだった?」
「ううん。むしろ呆れてるみたいだった」


この世界を選んだとき、わたしははっきりとユリウスにそう伝えた。もちろんそのときも正気ではないと言われたし、勢いだろうと謗られた。もちろん勢いだったのだけれど、そのために後悔することも自覚していた。勢いで行動すれば痛い目を見ることくらい、経験していた。
だから言われた言葉にわたしは憤っているわけではない。彼の言う意味がもし予想通りなら、わたしはひどく失望させられるのだ。
アリスはまだぶつぶつと口の中で何かを言っていたけれど――――言うはずがないわ、じゃあどうして――――わたしは、静かに問う。


「ねぇ、アリスはどう? ペーターとは上手くいってる?」
「ペーター?」


いきなり現実に戻されたようにアリスが顔をあげる。わたしは嬉しそうに頷いた。
アリスにはもう心に決めた人がいる。それをアリスもペーターも知っているはずなのだが、お互いの理解の齟齬のせいで今までずるずると保留のままだ。アリスは一瞬罰が悪いような顔をしたあと、ため息をついて話してくれた。つい先日ふたりはデートの約束をしたこと。けれどアリスはそれをまんまと忘れてしまい、何時間帯も待たせてしまったこと。それなのにペーターはまったく怒らず、あまつさえ来てくれたことに感謝さえしたこと。
やりきれないように話すアリスに、わたしは苦笑する。きっと忘れていたことに気付いたとき、アリスは必死で走って約束の場所に向かったに違いない。そんな情景が容易に想像できて、微笑ましくなる。けれど当の本人たちは大真面目なのだから、わたしもそう対応しなくてはいけない。


「それはアリスが悪いね」
「そうでしょう? でも」
「ペーターは怒らない。だって、アリスを叱るペーターなんて想像ができない」


だからアリスは消化不良を起こしてしまって、自分で始末がつけられない。他人のことなら筋道たてて考えられるのに、とわたしは思う。アリスのことなら自分のこと以上に把握できている。
わたしの部屋は暖炉の火のおかげで暖かだ。紅茶を用意していたし、ひざ掛けも準備してあったので防寒対策に余念はない。冷めてしまった紅茶のおかわりを淹れて来る、と立ち上がるとわたしの背中にアリスが言った。


「でも、ユリウスとが喧嘩なんて、私も想像できないわ」


暖炉で沸騰させたお湯をポットにつぎながら、わたしは笑う。もちろんわたしだって予想していなかった。ユリウスは思慮深く真面目で、きちんとこちらを気遣ってくれる優しい人だったから。ポットの中で揺れ踊る葉を数秒見つめて、蓋をする。アリスの元に戻って静かに腰掛けるとふわりといい香りがしてきた。


「あのね、アリス、わたしの予想ではあるんだけど」
「なに?」
「ユリウスは、わたしに誰かを選ばせたかったんじゃないかって思ったの」


―――――――――お前を留めた何かが、本当にここにあるのか?
あの「何か」とは、本当は「誰か」だった。そう考えるとすべてに説明がつけられる。どうしてここを出て行かなくてはいけないのか。ここではない場所にあるものは何なのか。わたしは余所者でどこへだって行けるから、固執する理由が「もの」ならば移動しなくてもいい。ただそれが「者」で、この塔にいない人ならば移動しなくてはいけない。
アリスは何かに気付いたように、顎に細い指先を沿わせる。


「…………アリス?」
「そういえば、ハートの城もそうだったわ。私が帰ったら、ビバルディがすごく荒れてて大変だったの」
「ビバルディが…………?」


荒れている、なんて聞きたくもない冗談だ。あの女王様が荒れていれば、ものの数時間で死体の山が出来上がるだろう。アリスは青ざめたわたしの想像が事実であるというように、頷いた。


「そう。手当たり次第、首を刎ねよって大変だったわ」
「…………それは、ものすごく大変ね」それしか言えない。
「私が帰ってそれも治まったんだけど…………ビバルディもキングも可笑しなことを言うのよ。エイプリル・シーズンだから私が帰ってこないと思ったって」


どこにでも行けるから、変化を伴えば留めておけない。
わたしとアリスは同時に深いため息を吐く。どうしてここの人たちは、わたし達をそんなふうに思うのだろう。ちゃんとここに居ついて、仕事をもらっているのだ。責任だってあるし感謝だってしているのに、それを簡単に投げ出してしまえると思われているのは釈然としない。いつだって彼らを裏切ってしまえるというのも、嫌な話だ。

紅茶を二人ぶん注ぎ足し、わたしは長い息を吐く。


「…………ユリウスも、そう思ったのかなぁ」
「そうね。ユリウスは言い方もキツイし、言葉少なだから…………」


過剰なまでに愛情表現できるウサギもいるのに、ユリウスは正反対で極端に言葉にしない。
わたしはしっかりとしたソファに寄りかかり、身をうずめる。以前はふたりだけで暮らしていたことさえもあったのに、いつからこんなにもわからなくなってしまったのだろう。引っ越しでいくらか離れていたとしても、人の本質など早々は変わらないのに。
もし変わったのがユリウスでなければ、とわたしも考える。彼ではなくわたし自身が変化したということだろうか。


「ユリウスの目に、わたしがそういう風に映ったっていうこと?」


誰かを愛したように、映ったというのだろうか。
「そういう風って?」とアリスが尋ねてきたので、わたしは一瞬口ごもったあとで閃きを告白した。彼の目にどのように映ったかなど知らないが、わたしは誰かを特定して愛したことなどなかった。もちろんそのせいで以前大掛かりな騒動を起こしたこともまた事実で、それからというもの恋愛関係には極力注意を払うようにしている。ブラッドとはふたりきりで会わなくなったし他の男性についても平等に接してきたつもりだった。思い上がりかもしれないが、自分が余所者であることを忘れてはいけない。無条件で好かれるなんて馬鹿馬鹿しい特性を持った自分を過小評価などしていなかった。


「…………ねぇ、


ふと、頬にアリスの指がすべる。わたしは思考を一時中断して、この儚く可愛らしい友人に瞳を据えた。アリスは真面目な面持ちでわたしを見つめる。


だって、誰かを愛していいのよ。誰も咎めやしないわ」
「…………アリス?」
「誰も選ばないんじゃなくて、選んではいけないと思ってない?」


言われて、わたしは言葉を継げなくなる。アリスの瞳の中のわたしは、ひどく頼りない顔をしていた。
愛してもいいの、とアリスはおまじないのように唱える。わたしはいつだってアリスの強さに圧倒される。どうしたって、この少女の強さには勝てない。わたしは自分が嫌いだし、それはアリスだって同じはずなのに、他人に向ける愛情の強さというか情熱は彼女のほうが何倍も厚い。わたしになくて、アリスにあるもの。それは人を受け入れる心の広さだ。わたしは自分自身に踏み入られることさえ、怯えている。
まっすぐに見つめるアリスの瞳に耐えられず、わたしはそっと視線をはずして返事をした。うん。短く簡潔で、要領を得ない返事は部屋の空気に溶かされてしまう。





















泥濘に咲く





(10.01.15)