遊園地に足を踏み入れるのとその爆音が空に轟いたのは同じタイミングだった。時間帯は夜で、あたりは若干涼しくなっている。途中の道で時間帯が変わってしまったせいで使われなくなってしまった日傘を腕にぶら下げながら、わたしは驚いて空を仰ぐ。夏らしいすっきりと星の輝く夜空に、今は大輪の花が咲いていた。
どどん、どん。腹の底にひびく心地いい音は、花火ならではの醍醐味だ。打ち上げ花火に見とれていると、とんとんと肩を叩かれた。


! 久しぶり!」
「ボリス!」


あまりにも花火の音が大きいので怒鳴るような言い合いになる。ボリスはいつものようにピンクのファーを身体に巻きつけて、夏らしいと言えばらしいヘソだし姿だ。これでファーがなければ涼しげと言えなくもないが、彼のことだからきっと炎天下の中でもファーは手放していないのは容易に想像できた。
花火の音にところどころ削られながら、やっとのことでゴーランドは仕事で不在、ピアスもどこに行ったかわからないことをボリスが伝えてくれる。わたしはゴーランドに用事があったので、わからないように肩を落とした。珍しく抱えたバックには、先日の日傘のお礼が入っている。


「じゃあさ、いいところに行かない?」
「え?」
「ちゃんと! 話が! できるところ!」


言うなり問答無用でボリスはわたしの手を取り歩き出す。ぐんぐん歩くボリスは上を見上げて手元がおろそかになっているお客さんたちの間を縫うように歩く。すいすいと早さを増しているはずなのに、わたしは誰ともぶつからなかった。彼は避けられたとしても、わたしまであたらないわけがないのにきちんと気を配ってくれている。わたしはせめて足だけはもつれさせないようにと、しっかりと歩く。やがて人ごみを抜けた先は、遊園地の敷地さえも飛び越えた森の入り口だった。けれど出入り口ではなく従業員専用の勝手口のようなそこからまた少し歩き、坂の中腹くらいでやっとボリスは止まった。息切れどころかすでに体力はすべて使い切ってしまったわたしは、彼が手を離してくれたのを待っていたかのようにその場にへたり込む。


「あ、悪い! そんなに疲れた?」
「…………だ、大丈夫…………じゃない」
「ごめんって。あー…………じゃあここからは俺が運ぶからさ」


頬を掻きながら上を指差すボリスに嫌な予感がした。けれど遠慮しようと腕を出すよりも早く、ボリスの腕はわたしの背中に回される。逞しい腕によって背中と膝の裏が支えられ、腰が浮いた瞬間に予感は的中する。いくら猫だからと言って、人一人を抱えて木を登れるものなのか。


「……っ!!」


怖くて見ていられなかったせいで、わたしは決定的瞬間を見逃してしまった。なにせ、わたしが次に瞳を開くとそこは先ほど見上げた木の枝だったからだ。低いとはいえない、見晴らしのいい場所でわたしは隣に悠々と座るボリスを見つめる。


「…………どんな魔法よ」
「ん? 猫だもん」


これくらい軽いよ、と笑うボリスはあまりにもキラキラして見えて笑うしかなかった。彼はいつだってわたしの願いを叶えてしまう。本当に簡単なように見えて、実は相当の苦労をしているのかもしれないのに、そう見せてはくれない。


「きれいだねー…………」


赤や青、緑に黄色。はじける火薬が綺麗で、わたしは疲れた身体もここがどんなに危険な場所なのかも忘れてしまう。もちろん足元は見ないようにしなければならない。
ボリスも上機嫌でわたしの隣で膝を抱えて、同じ高さの花火を見つめる。


「だろ? 下で見るよりよっぽど綺麗だ」
「そうだね。…………下では話をするのも難しいし」
「だよなー…………っと、おっさんに用だったんだっけ?」


突然思い出したように言う彼は、とりあえずお留守番の役目くらいは果たすつもりらしい。わたしは抱えたバックから小さな包み紙を差し出した。


「これ、日傘のお礼に渡したかったんだけど」
「…………これ?」
「そう。スノーマンっていうの。冬のお土産で、涼しげなものがいいなと思ったから」


ふぅん、と笑ったボリスは、けれどきちんと受け取って渡すことを約束してくれる。彼に頼めばピアスにお願いするよりはるかに安心だ。ピアスの場合、悪気はなくとも壊されてしまうだろう。


「ちゃんと渡してね。ジョーカーに勝つのはちょっと大変だから」
「ジョーカーさん?」
「うん、そう。季節を変えてもらったの。ブラックジャックであんなに緊張したのは久しぶりだった」


友人たちとするカードゲームとは違って、彼との勝負には賭けているものがある。何度でも挑戦していいと言われているが、そう何度もやりたくはなかった。仮面の方ではないジョーカーとの会話は疲れるだけだし、あの空間は時間がとまっているせいで長居してしまいそうになる。
ボリスが不機嫌を顕わにしながら「ふぅん」と呟く。


「…………もしかして、ボリスはジョーカー、嫌い?」


あまり人の好き嫌いを言わない彼にしては珍しい。世渡り上手な猫でもある彼は、けれどあっさりと頷いた。


「嫌い。俺ってさ、猫だろ? 支配されるのって嫌なんだよね」
「支配?」


しているの、と首を傾げる。たしかに彼しか季節を変えられないのだし、そう言った意味で彼はこの空間の支配者かもしれない。けれどボリスはもっと本質―――例えばピアスの仕事や性格を知って尚、汚いと言うような―――を、嫌っているように見えた。


「それにあんなに辛気臭いやつもいないよ。ネガティブで、どこへも行けない。…………もしかして、、あんなやつと仲良くなったの?」


止めた方がいいよ、と言いそうなボリスにわたしは苦笑する。


「仲良く…………とまでは行かないと思う。でも、仮面のほうのジョーカーは嫌いじゃないよ」


嫌いじゃない。わたしはいつだって弱腰で、八方美人だ。
ピエロのジョーカーは得体の知れない笑顔だし近寄りがたくはあったけれど、仮面のジョーカーは口が悪いだけだ。けれど彼の口の悪さは真実だけを語ってくれていると思えた。
―――――――――気になることを放っておいて、いいわけがねぇだろ。いけないと思うなら、まずいことに決まってる。
わたしに初めてきちんと忠告してくれた。あのときの衝撃は、心の弱い部分を上手く突き刺したのでまだ余韻として残っている。あの口の悪さに感動して、あまつさえ嬉しいだなんて思ってしまったことは口が裂けても言えないけれど。


「…………やめなよ」


ふいに声が近くなり、わたしは自分の意識が彼から離れていたことを後悔する。ボリスの鋭い猫の瞳がずっと近くにあった。


「ジョーカーに深入りするのは、やめた方がいい。あんなにタチの悪いのに捕まったら、アンタただでさえ危なっかしいってのに………」
「わわわ、わかった、から」


どいて、と小声になった自分があまりにも少女染みていて薄ら寒くなる。きちんと引いてきた線が、突然なくなってしまった。アリスも言ってくれたけれど、誰かを愛するのはまだわたしには早い。
わたしはボリスから顔を逸らして思わず、下を見てしまった。


「―――――っっ!!」


地上数十メートル、はるか彼方に見える地面がわたしを襲う。しかも思わず目を瞑ってしまったせいで、大きくバランスを崩してしまった。ぐらり。揺れた体から血の気がひく。


「おぉっと!」


ボリスの腕がのびて腹にまわり、わたしはなんとか落下せずにすむ。近くにいたおかげとは思いたくないが、わたしは思い切り彼にしがみ付いた。女の子みたいに線の細い、しかし筋肉質な身体は温かい。


「にゃはははっ、大丈夫大丈夫っ」
「だいっじょうぶ、じゃないっ」


お願いだから下ろして、としがみ付いて震えだしたわたしに構わずボリスは笑っている。確かに彼は余裕のようで、ピンクのファーを絡み付けて固定してくれるのだが、わたしは彼から離れられない。花火の音でさえ振動音となって襲い掛かってくるし、なにより先ほどの景色が脳裏に張り付いていて怖かった。


「…………ずーっと、こうしてようか」


ジョーカーさんにも渡さない、と囁いたボリスの声は聞こえていたけれどわたしは答えられない。彼がジョーカーの何を気に食わないのかはわからないが、わたしは誰かに奪われるような代物でもない。奪う、というのはつまりそれだけの価値があるものに使えるのだから、わたしにはまったく似合わない。
ぎゅうと目を瞑っていると、耳の奥に響く花火とボリスの笑い声が混ざって夏の夜空に溶けていくようだった。















届かぬは夜に現れる





(10.01.15)