夏の夜風に長く当たっていたからかもしれない。もしくは、しばらく抱きしめあってようやく顔を付き合わせたボリスとの会話が妙に恥ずかしく逃げるようにクローバーの塔に帰ってきてしまったせいかもしれない。夏と冬との気温差をまったく無視して、コートを羽織るだけでどうにかなると高をくくっていた。手袋くらいすればよかったのだろうし、もちろん準備をあげればきりがないのだろうけれどとにかく、わたしは後悔していた。
自分自身を恨めしく思いながら、わたしは天井を見つめる。クローバーの塔の壁は緑を基調とした幾何学模様がちりばめられていて、まるでパズルのようだ。わたしは時折視界が歪むので必死に目を凝らす。身体はまったく動かせなかった。


「風邪ですね」


そう診断したのは、ナイトメアの係りつけの医師だった。わたしが塔で働きだしたころ、一緒にこの医師の病院に通っていた。正しくは通わせたようなものなのだが、ナイトメアにしては珍しく従順に診察されていたし注射も点滴も文句を言いながらも打っていた。そういえばエイプリル・シーズンになってからはご無沙汰だ。わたしが行こうと言わなければナイトメアは行こうとしない。
その医師によってわたしは大変遺憾ではあるのだが、風邪だと宣告された。別に余命いくばくかと言われたわけでもないのにひどく落ち込む。これではナイトメアを叱れない。
ボリスと別れ、クローバーの塔に戻ってきて見れば体がだるかった。これはまずいと思ったときにはすでに遅く、なんとか自分の部屋にたどり着くと熱のせいで節々が痛んで動けなくなっていた。そのまま倒れるようにベッドにダイブし、部屋から出てこないことをいぶかしんだグレイの部下が様子を見に来てくれて発見されたわたしは熱に浮かされて返事もままならない状態だった。すぐに医者が呼ばれ、大量の薬や暖房器具が運び込まれた。この塔の人たちは病人の扱いに特に慣れているので下手な看護師よりも機敏に動く。


「…………具合、どう?」


じっと天井を睨みつけていると、か細い女性の声がする。わたしは未だに治まらない頭痛に顔を歪めながら首を動かした。アリスが氷を張った桶を持って、わたしを覗き込んでいる。
わたしが風邪だとわかってすぐ、アリスは駆けつけてくれた。連絡をしたのはグレイだ。なにしろこの塔で働く人たちは病人には慣れていたが女手が極端に不足しているので、わたしの看病に対するあれこれ―――着替えさせ、身体を拭き、様々な介助をする―――に苦心したのだった。アリスはとてもよくしてくれた、と思う。熱にうなされ寝込んでいたので覚えていないが、うっすらと立ち働く姿を見た。


「…………だめ。きもちわるい」


頭も持ち上げられずに呻くと、アリスは無理をしないでと言うように笑った。枕元に桶を置いて、タオルを絞ってわたしの額に置いてくれる。ひんやりとしたタオルが心地よくてわたしは瞳を閉じた。


「なかなか熱が引かないのね…………」


ナイトメアではないので薬はきちんと飲んでいるが、なにしろ気分が悪くて食事がとれない。スープをなんとか流し込んで薬だけ飲んでいたのでは治るものも治らないのかもしれない。食事を作ってくれるのはアリスなので、せっかくおかゆなど作ってくれるのを心苦しくは思うのだがどうにも喉を通らなかった。
冷たいタオルは額に生地の感触をきちんと残す。わたしは遠のきそうになる意識をなんとか留めようとする。


「…………なんだか、治ったら三キロくらい痩せてそう」
「痩せてるに決まってるわ。もう何時間帯もろくに食べていないのよ?」
「キツいダイエットだなー……」


力なく笑う。アリスは手近な椅子を引き寄せて座り、看病の間はずっとそうしているように文庫本を取り出した。


「眠ったほうがいいわ。私はここにいるから」
「うん…………アリス」
「なに?」


天井を見つめながら、尋ねる。外は吹雪なのだろうか、耳鳴りがした。


「だれか、きた?」


アリスは文庫本に目を通しながら「ナイトメアが三回、グレイが二回」とだけ答える。前に目覚めたときもナイトメアは二度訪れていたらしい。風邪が移ったらどうするのだろう。わたしでもこんなにひどいのに、と思うが、アリスがいればそんな心配くらい嫌味と一緒にナイトメアに忠告しているはずだ。安心していいのか呆れるべきなのか、判断付かずにわたしは笑う。


「それに、ビバルディとエースとペーターが来たわ」


続いた人物に声を失った。わたしがぱっちりと瞳をあけると、アリスは文庫本の向こうで微笑む。そうしてビバルディがお見舞いに持ってきてくれたらしい花は芳香が強すぎて別室に飾ってあることと、早くよくなって快方祝いにお茶会をしたいと言っていたことを教えてくれた。突然三人が来たことでナイトメアやグレイは困惑したが、友人の見舞いに来て何が悪い、とビバルディは堂々と言ってのけたらしい。女王の豪胆さに、わたしは驚くしかない。
それからエースはビバルディの護衛役なのに随分長くベッド脇にいたのだとアリスは苦笑した。ペーターが来たのはもちろんアリスを風邪菌のうようよする部屋から連れ出す為だろうが、彼女がここに残っているということはわたしはまた一つ、宰相閣下に恨まれる要因が増えてしまったということだろう。
エースはともかくビバルディが冬に来てくれるなんて、奇跡に近い。随分文句を言いながら来てくれたのだろう。塔の人たちも女王のお出ましに慌しくなったに違いない。けれどわたしには誰かが寄り添ってくれた記憶はない。


「仕方ないわ。はずっと寝ていたし」


初めのころは点滴だって打っていたし、意識だってはっきりしていない。病人の部屋には入れないと忠告したのに、とアリスは肩を竦めていたが城の面々が聞くはずもない。ビバルディもエースも、ペーターだっておそらく病人の見舞いにくるような人物には思えないが、来てくれたのだ。わたしは胸があつくなって、喜んでしまうのを押さえきれない。
身体は不自由だし寒気も治まらないのに、心だけが明かりを灯されたように温かい。


「…………ねぇ、アリス」


掠れた声は喉にじかに響く。アリスは首をかしげた。わたしはできるだけ柔らかく微笑む。


「ありがとう。…………わたしは、果報者だねぇ」


上司は優しい人たちばかりだし、看病してくれる友達も、お見舞いにきてくれる人もいる。
ベッドにひとりきりじゃなくてよかった。ひとりきりで寒いベッドの中、憂鬱をやり過ごすのは難しい。熱に浮かされてみる夢は、悪いなんてものじゃないだろう。
アリスは母親のように大きく柔らかな表情で微笑んだ。


「そうよ。あなたは、果報者なの。…………忘れないでね」


とうとうまぶたを開けていられなくなって瞳を閉じると、馴染んだ闇がわたしを迎える。



























* * * * * * * *



























ようやく眠ったの寝顔をしばらく見つめてアリスは席を立つ。暖房は順調に動いてくれているし、きちんと湿度も保たれている。明かりをそっと消して廊下に続く扉を開けると、壁に寄りかかるようにして立つ男がこちらを見た。音をたてないように細心の注意を払いながら、アリスは扉を閉める。真っ赤なコートを着込んだ男―――エースが、大きく一歩踏み出す。


「眠った?」


えぇ、と頷くアリスにエースは読み取れない表情のまま頷いた。には話していないがビバルディと共に来たはずのエースは女王が帰っても塔に残った。けれどそれに対してビバルディは憤慨する様子もなく、まるで最初から決めていたかのように視線をくれただけだ。交わした言葉はひとつもない。
女王が帰ったあとエースはしばらく眠るを見つめていたが、おもむろに部屋を出た。どこに行っていたかなど想像に難くはなく、彼が連れてきたのは――――いや、エースの方向音痴を考えれば連れてこようと思った相手に案内されたのだろうが―――ユリウスだった。いつもより不機嫌でむっつりと押し黙り、アリスにの様子を聞いた。病状が芳しくないことを告げると、部屋に入ってベッド脇にある椅子に座りエースと同じようにしばらくの寝顔を見つめていた。苦しげに時折顔を歪めるの額に浮かぶ汗をふき取るアリスを見て、やがて「頼む」とだけ言い残して部屋に帰ったユリウスは、けれどナイトメアよりも足しげく通ってきている。
アリスは真冬の廊下で白くなる息を、ためらいもなく吐き出す。


「…………ユリウスの望みどおり、には伝えてないわ。お見舞いに来てるって」
「そっか。ありがとな。…………まったくユリウスは根暗すぎるぜ」


ははっと笑ったエースの息も白くなって宙に浮く。部屋に入ればいいと言うのに、この騎士は言うことを聞かずに頑なに廊下で立ち続けている。壁に寄りかかり扉を睨みつけるようにしているので、塔の人々は不思議に思っていることだろう。
アリスは両腕をさすりながら、この不思議な男が妙に安定していると感じる。ユリウスが戻ってきてからこちら、彼は常識が――ただしある程度だが――通じる相手になった。


「ねぇ、エース」
「ん?」
「ユリウスに、何を言ったの?」


エースとは言え、あの偏屈をの部屋までつれてくるのは至難の業だったに違いない。しかも彼女たちは喧嘩中であるという。内容はまったくもってユリウスが悪いとアリスは感じるし、事実そのことについて言及したりもしたのだが時計を修理しながらユリウスは事も無げに答えた。そう思ったから言った。論理的なユリウスにあるまじき答えにアリスは言葉が詰まったが、言っていいことと悪いことがあると言い返すのも忘れなかった。
そのユリウスを、エースは連れてきた。が風邪だと聞いても頑なに部屋を出なかった男だというのに。
エースは唇を持ち上げて笑う。


「簡単だよ。ユリウスが知らなくて、俺たちが体験したことを話したんだ」
「…………体験したこと?」
「そう。がいることは、何も当たり前なんかじゃない。俺たちは一度、を本気で失ったと思っただろ?」


エースの言葉で、ようやく言いたいことを理解した。アリスやエースが体験して、ユリウスだけが感じたことのないそれは、なるほど彼には堪えたことだろう。
引っ越しの後、の所在についてのもろもろが起きたとき、彼女は一度自殺未遂している。今思い出してもぞっとする。彼女は自分のこめかみに銃をあてがって、躊躇うことなく引き金を引いた。結局銃には弾が込められておらず空砲だったのだが、轟いた銃声はアリスに絶望を刻み付けた。銃口から煙が噴き出していて、それがの魂のように感じた。
あのときエースは、の一番傍にいたのだ。彼がから銃を奪おうと動いたのをアリスは見ている。その腕が空を切り、張り裂けんばかりにの名前を呼んだことも。


「…………簡単に死ぬよって、言ったんだ。どこにだって行けるけど、身体も心も弱いから目を離したら終わりだ」
「…………」
「失う瞬間なんて、体験しなくちゃわからないだろうけどさ」


視線を床に落としたエースの瞳は笑っていない。確かに誰かを失う本当の怖さなど、想像してみたところで本物とは程遠いのだろう。アリスも出来れば思い出したくない出来事だが、に会っていないと居てもたってもいられなくなってしまうことがある。思わず、生きているかどうかを確かめに会いに行ってしまったことも一度や二度ではない。


「でもさ、ユリウスはそれがわからないほど馬鹿じゃない」


だから通ってる、とエースは続ける。見舞いに来ていることは言わないで欲しいと頼んではいるけれど、彼は何もしていないわけではないのだ。アリスはそのもどかしさに一抹の不安を覚えたが、こればかりは無理強いしても仕方がない。どちらかが歩み寄らなければ、離れた距離は縮まらない。


「よし、じゃあ、俺そろそろ仕事に行くよ」
「仕事?」
「そう。ユリウスに頼まれた仕事をね」


そう言って腕を伸ばしながらエースは歩き出す。ユリウスと同様にを「お願い」して、颯爽と歩き出す彼の足取りはしっかりとしていた。地に足がついている歩き方だ。アリスはエースを見送ったあとで部屋に戻る。だから、彼が最後に呟いた言葉を聞くものはいなかった。


「お邪魔虫が…………来なきゃいいけど」


呟きは吐き出された吐息と共に冷え切った廊下に吸い込まれて消えた。
















苦い蜜







(10.01.15)