何度目の、ここはどこだろう。
わたしは視界に映るすべてをぼんやりと見つめる。知っている場所だとわかるのに、理解するのに随分時間がかかった。まるで何年も見ていなかったような感じだ。遠い記憶の中にしまい込んでしまっていたかのように、記憶があいまいだった。ただここが夢の中だという事実だけは理解していた。
まばたきの間にも移り変わる情景は、どれもわたしの育った場所だった。生まれた家から始まり、はじめて出来た友人、よく遊びに行った公園、小学校での縄跳びや鉄棒、それに家族と一緒にいった旅行の場所が延々とフィルムのように流されていく。もちろんわたしの瞳そのものが劇場なので臨場感はたっぷりとあり、嘘と本物を見分けることなどはできない。それになにより、そこには父や母がいて友人や先生がいる。


「―――――――――」
「――――――?」
「――――――――!」


無声映画なのだろうか。わたしの目の前で様々な人が口を動かしながら何かを必死に伝えようとしていた。わたしの返事を期待するように待っている人もいる。けれどわたしは誰に対しても何も言ってあげることができない。何を聞かれているのか、話すべきものは何なのか、どんな顔をすればいいのか、そのすべてが予想できないからだ。


「?」


何を言えばいいの、と訪ねようとしてわたしは口を噤む。尋ねるべきは自分自身にあるのかもしれないと思ったからだ。正直に言って伝えたい思いや言葉があるかと聞かれれば、わたしは押し黙るしかない。両親に感謝などいつだって送れるのだし、友人と思い出話をするにしても違う場所がある。
そうだ、いつだって大切な話しなどしなかった。数歩歩けば忘れてしまうような会話、覚えていなくても支障のない日常、溢れていたものはそんなものだった。
あぁ、だから。


「―――――――――」


彼らの唇は動いても、それらはわたしの耳の外側を滑っていく。気持ちに入ってこない言葉などどこにも残らないのだ。身体が受け付けていないのだろう。わたしはそこでようやく、数度のまばたきの間にかわるがわる目の前に現れる人たちの顔がないことを知る。
―――――――――顔なし?
そんなはずは、と目を凝らした。仮にも両親だ。大切な、親友と呼んでもいい友人だ。彼らの顔がないなんて、そんなことはあるはずがない。
わたしはその無声映画が怖くてたまらなくなる。目の前で口を動かす女性の顔がわからずに、どうしてわたしは母だと断言できるのだろう。
大きくまばたきをすると、たたきの固さまで知っている玄関にわたしは立っていた。硬質な空気が容赦なくわたしを襲い、寒くはないが足は動かず、病気でもないのに声が出ない。両親を呼んで助けてもらわなければ、と思った。玄関に貼り付けにされているなんて、あまりにも馬鹿馬鹿しい夢だ。わたしは玄関から動けずにいる自分が、どこにも帰る場所がない子どものように頼りないと思った。ここは自分の家であるはずなのに、もう何もかもが遠い。


「…………」


動かせるのはどうやら瞳だけらしい。わたしは何度もまばたきを繰り返す。延々と続く無声映画はまたわたしの成長記録をどんどんなぞりだした。真新しい制服に袖を通したときの感動や、はじめての受験勉強の末受かったこと、友人だけで計画した旅行など、周囲はさまざまに変化する。唯一わたしだけがその場を動かず成長もせずに、その情景を見守っていた。自動車教習所で初めてハンドルを握ったときの心もとない感じ。それらはすべて、わたしが感じたものだ。
どんどん流れ込んでくる情景の合間に、時折別の映像が入り込んだ。幾何学文様の緑の壁が一面、わたしの視界いっぱいに広がる。数秒だけの、けれど成長し続ける情景とは違う壁は淡々とそこにある。
ここはどこだろう、もう何度目なのだろう。こんなものは夢なのだから、とっとと起きてすべてを思い出さなければいけない。


「…………?」


けれどようやく本物のまぶたを開けたとき、わたしの視界に広がるのは懐かしいどの情景でもなく緑の幾何学模様で飾られた天井だった。あたりは真っ暗で部屋の端にぼんやりとした灯りが灯されているだけだ。すぐに夜だとわかったが、わかったのはそれくらいだった。
数秒事態が飲み込めず何とか身体を動かそうとするが、どこもかしこも筋肉痛のように痛んだ。見知ったどれとも違うその場所が、ひどくリアルに質感を伴ってくる。
ここはどこだろう、どうして誰もいないのだろう。わたしはひとりで、どこに来てしまったのだろう。


「…………ここ、どこ?」


小さくしゃがれた自分の声に驚いて、わたしは口を噤む。そういえば喉がからからだ。
頭痛もするし、おなかの調子もおかしい。目も開けておくのが億劫で、すぐにでもまた夢の世界に旅立ってしまいたかった。


「ここはクローバーの塔だ」


思いがけずしっかりとした、しかし両親や友人の誰でもない声が返ってくる。わたしは思わずベッド脇を見た。首を回すのも一苦労だったが、ゆっくりと慎重に動かす。
あたりが暗いせいで声の主の顔が見えなかった。足を高々と組み、まっすぐにこちらを見る視線のするどいことはわかるのに、全体像が見えない。


「…………だれ?」
「おや、私を忘れてしまったとでも言うつもりか。お嬢さん」


独特の脳裏から離れない声質、有無を言わせぬ物言い。それに躊躇いもなくお嬢さんだなんて呼ぶ人は、わたしの生まれ育った場所にはいない。
瞳を凝らすとやっと相手の輪郭が浮かんだ。闇の中でも光る黒髪に、大きな帽子、それに煌く藍色の瞳。零れ落ちそうな薔薇が、ひどく似合う人だった。


「うわ言で他の男の名前を呼ばれれば癪に障るとは考えてきたが…………さすがに今のは予想外だ。まったく、君はいちいち楽しませてくれるな」
「…………?」
「熱で潤んだ瞳であまり見つめないでくれ…………本当に初対面のような気になってくる」


はぁ、とため息をついた男性はひどくダルそうに椅子から立ち上がり上半身を倒してわたしに近づく。もう暗闇など関係なく、表情の細部までわかるほどの距離だ。ゆっくりと手袋をはずした男性の指先が、わたしの頬にすべる。


「熱が高いな…………タチの悪い風邪にかかったものだ」
「…………」
「とにかくこちらに帰ってきなさい。君は今、この世界にいるんだ」


世界。男性の指が頬を覆い、言葉が脳裏を刺激する。まだぼんやりとする頭の中で、わたしはどちらが夢だったかをはっきり自覚した。わたしは男性の瞳を見据えて、申し訳ない思いが伝わるように眉を落とした。


「ごめんなさい、ブラッド」
「…………よろしい。忘れられるのは面白くないからな」


にっと怪しく笑ったブラッドは、いつも以上に綺麗だ。随分久しぶりに会った気がして記憶をめぐらせれば、エイプリル・シーズンになってからは初めて会うのだ。形のいい硬い指先が頬から額に移り、前髪を散らせる。くすぐったいので目を細めた。


「…………お見舞いに、来てくれたの?」


夜の時間帯しか動かないブラッドのことだから、きっとタイミングを合わせてきてくれたのだろう。そう思って聞いたのだが、ブラッドは急に真面目な顔になって鼻をならす。


「そうだ…………私としてはもっと早く来たかったんだがね。あの芋虫が………女王にしてやられたせいでやれ体裁だの、領地だのと小うるさく言ってきたので遅れた」
「…………へぇ」
「面倒になったので力ずくで押し入り、ついでに君を攫って秋にご招待しようとも思ったのだが…………」
「へぇ…………えぇ?!」


仮にも上司の失態に耳を痛くさせていると、今度は頭痛が増しそうな話が加わった。寝ている状態だというのに、目眩をおこしそうになる。
ブラッドはわたしの驚きに満足したようにくつくつ笑った。


「落ち着きなさい。ここはクローバーの塔だと言っただろう?…………『力ずく』の準備をしているときに賢いアリスが君への面会を許可してくれた」


だからここにいる、とブラッドは言う。彼の笑みは闇によく似合って、声さえも溶け込んでいる。熱のせいかもしれない。


「そっか…………ともかく、ありがとう。エリオットたちはお留守番?」
「あぁ…………共をつれず、というのが最低条件だったからな」
「そうなの」


部屋は暖かくブラッドは穏やかに笑っていて、ここはとても平和だ。わたしは先ほどの自分の夢がひどく都合のいい悲しいものだと感じる。ワンダーワールドのことなどちっとも思い出さなかった。目を覚ませばそこにあるのは、育った環境であるはずだと信じきっていた。
なんて虫のいい話だろう。どんな理由にせよ、わたしは自分自身でここに残った。それなのにすべてを忘れて戻ろうとするなんて馬鹿げている。それにもう戻れないのだ。わたしは両親や親友の顔がなかったことを思い出す。ゆっくりと慎重に記憶を辿れば思い出せるが、あのときわたしは思い出せなかった。ワンダーワールドも元の世界も、どちらの世界にも居場所などなかったのかもしれない。
怖い。わたしは自分自身のいる場所が、ひどく不安定だと思う。後ろを振り返ってももう戻る道などないのに、目の前の道さえも消えてしまった。歩き出せもせず恐怖に身を縮めたわたしは、だからそのとき離れようとしたブラッドの腕を必死に掴んでしまった。身体がぎしぎしと痛むことなど、お構いなしに掴んだ彼の腕は温かい。


「…………?」


ブラッドの左手は温かで硬く、あきらかに自分のものとは違っている。それにベッドや枕、この世界でわたしに触れているすべてのものより優しいように感じた。少なくともこの手を掴んでいれば、この世界で道に迷うことなどない。
―――――――――とにかくこちらに帰ってきなさい。君は今、この世界にいるんだ。
つい数分前のブラッドの声が蘇る。


「…………さっき、わたしはどこにいたんだと思う?」


ブラッドの左手を両手でしっかり掴みながら、わたしはあまりにも抽象的な質問をした。
ブラッドの声でようやく戻ってこれたけれど、わたしはあのときこの世界で迷っていた。自分の部屋だというのに、ここがどこだかわからなかった。それなのにこんな質問をするのは愚かだ。何もかもを他人に委ねる行為は重荷にしかならないと知っていた。
ブラッドは無理に右手を引き抜こうとはせず、瞳を細める。


「…………先ほども今も、君はここにいるだろう」


低く穏やかで、わたしの真実を明らかにしてくれる声は優しい。
――――――――どうして、迷うんだろう。
いつか、アリスも不思議そうに呟いていた。けれどそのときのわたしに迷うものなどなく、恐れるものなど存在しなかったので彼女の気持ちがわからなかった。今なら存分に同じ気持ちを共有できる。迷う理由が自分でもわからない、この不安な気持ち。


「夢を、見たの」
「ほぉ………」
「わたしの育った場所の夢。でもね、とても怖かった」


わたしはまったく動けなかった。かわるがわる現れる人々に顔はなく、それなのに両親であることも友人であることも明白だった。わたしは何を見てきたのだろう。何を持って彼らを彼らとして認識していたのだろう。そこにあって当たり前だったものを、もうずっとないがしろにしてきたということだろうか。
両手で捕まえたブラッドの手を握る指先が震えそうになって、力を込めた。


「怖かった」


言い知れぬ恐怖を口にしても、心が軽くなるはずがない。これは悩みとは違う類の問題だ。なにしろわたしの深層心理が深く関わってくるもののはずだから、そんなものをブラッドに相談しても仕方がない。困らせるだけが関の山だ。そう冷静に分析できるくらいの判断力はあるのに、どうしても口に出さずにはいられなかった。ブラッドの安定した空気に、少しでも自分を浸らせていたかったのかもしれない。
ブラッドの手のひらがふいに、わたしの手を握り返した。そっと見上げるとブラッドは微笑んでいる。綺麗な藍色の瞳に、奇妙な陰影が見えた。


「…………やはり『力ずく』の準備をした方がよかったらしい」


低く空気を震わせる声が、わたしは単純に好きだ。彼の声は人に響く。


「君を不安にさせるなど…………私ならば絶対に、しない」
「この塔の誰のせいでもないの。…………わたしが勝手に迷ってるだけ」
「だが迷う手を握ってやりもしない。私ならば…………掴んだまま、決して離しはしないだろう」


掴んだ手が熱くなる。まるで手のひらに心臓が移動したように、脈打つ。彼はしっかりとわたしの手を握ったまま微笑んでいる。わたしは、ブラッドが今ここで離しはしないかもしれない手を呆然と見つめた。もし拒否するのなら離さなくていけないのだろう。離すべきなのだと警告する声も聞こえる。それなのに、わたしはブラッドの手を離せない。
―――――――――ここから出ていけ、と言ったんだ。
ユリウスの発言を思い出すたびに胸の奥でちくりと痛み部分がある。もしもただ傷ついているだけで、目の前の優しい人の手を取ろうとしているのならなんて恥知らずだ。この人なら迷う手を握り続けてくれるなんて信頼を、厚かましすぎる願いをまた預けるつもりなのだろうか。そうして突き放されたら、約束が違うとまた腹を立てる。
そんなことをすれば、きっとブラッドは容赦なくわたしを捨てるだろう。無様な姿を思い描いて、わたしは弱々しく笑う。


「ありがとう………でも、一緒にはいけない」
「なぜだ? どうしてこの塔を選ぶ」
「あなたを選ばなかったわけじゃないの。…………あなたに嫌われることの方が、怖い」


縋った手を振りほどかれたら、わたしはきっと立ち直れないだろう。今度こそ本当に、どの世界からも拒否されてしまう。そうして行き場を失ったわたしは、自分自身で世界を見限らなくてはいけない。
瞳を閉じて、ゆっくりと深呼吸する。熱は高く、自分の声はしゃがれていて聞き取りづらい。それなのに辛抱強く一緒に居てくれるブラッドは悪人には見えない。


「病人のお願いを聞いてくれるなら…………もう少しだけ、こうしていて」


ずっとふたりきりで会うことを避けていたのは、あの事件があったからというわけではなくてむしろ、こうやって包み込んでくれる優しさに絆されてしまうと本能で理解していたからかもしれない。ブラッドは底なし沼のように抜け出せない優しさを持っている人だ。
ブラッドはわずかに嘆息し、空いている右手でわたしの頭を優しく撫でた。


「病人でなくともそれくらい造作もない。…………ゆっくり眠りなさい」


あやすような手つきに涙がこみ上げたけれど、奥歯を噛んで耐えた。病気のせいで弱っているのだろう。心も身体も、ここのところ変化が多すぎて疲弊するばかりだ。
ブラッドの手を握りながら、もう一度考えようと決意する。ジョーカーは考えるなと言ったけれど、わたしには進むための鍵が必要だ。元の世界への渇望を思い出して感傷にひたるほど馬鹿な女になりさがるつもりはない。
いつだって一人で、自由だった。自分で考えて人に助けてもらって、この世界で前を歩く自分を好きだとも思った。戻れなくとももう一度近づきたい。わたしは瞳の奥の闇に吸い込まれながら、不安を飲み込もうとする。




















真夜中の号砲





(10.02.05)